山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
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《1日目》2015年3月5日
日本橋(中山道出発点)~ 板橋宿 ~ 蕨 宿
~ 浦和宿~ 大宮宿
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道中行程 |
行 程
江戸日本橋 → 本 郷 → 巣 鴨 → 板橋宿 → 志 村 → 戸田橋 → 蕨 宿 → 浦和宿 → 大宮宿 → 大宮駅 |
距離・時間 31.4km / 8時間30分 | |
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天気は晴れ少々風がある寒い朝、いよいよ、今日は『山ねずみが歩く中山道』の第1日目である。
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《 江戸日本橋 》
慶長八年(1603)徳川家康が幕府を開いたときに架けられた伝えられています。
幕府は東海道をはじめとする、五街道(日光街道、奥州街道、中山道、甲州道中)の起点を日本橋とし江戸経済の中心となっていました。
橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。
現在の日本橋は東京市により、石造り二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、
青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表している。
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江戸日本橋 (歌川広重画) |
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『日本橋』を後に国道17号線沿いに神田駅前、須田町、「孔子が生まれた郷村の名をとったといわれる」昌平橋を渡り
湯島聖堂(昌平坂学問所)の脇を通って神田明神の前に出る。
江戸の総鎮守 『神田明神』 天平二年(730)に創建、祭神は平将門)に参拝して、中山道の長~い道中の無事を祈る。
本郷通りを、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」といわれる 『かねやす』(「乳香散」という歯磨き粉を売り出し評判になる)の前を通り、
「将軍家斉の娘溶(やす)姫が降嫁の際、加賀藩上屋敷に建立された朱塗りの門 『東大赤門』 に出る。
本郷 『追分一里塚』 より17号線(旧白山通り)に入り、途中、東洋大の立派な校舎の前を通り巣鴨駅を目指す。
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神田明神本殿 |
神田明神 [拡大表示] |
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東大赤門 |
本郷界隈 [拡大表示] |
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巣鴨駅の陸橋を過ぎ、おばちゃんの原宿として賑わう巣鴨地蔵通りの入口に「六地蔵」、少し行ったところに「とげぬき地蔵」である。
地蔵通りは早朝のため「おばあちゃん」の姿は、まだ見えない。
『とげ抜き地蔵』(高岩寺)は、曹洞宗の寺院。通称である「とげぬき地蔵」の名で呼び親しまれる。
境内に立つ洗い観音(聖観音)は病気平癒祈願で信仰が厚い。
『洗い観音』 として愛されている観音様は、自分の調子の悪い部分と同じ観音様の部分に清水を掛けて手ぬぐいで洗い清めると良くなるといわれている。
本尊延命地蔵菩薩を写しとった「御影」が本堂で授与されている。
江戸時代、針を誤飲したお女中に「御影」を飲ませたところ、針が地蔵をつらぬいて出たのが「とげぬき」の由来である。
我輩も幼少のみぎり「御影」(地蔵の絵姿が描かれた小さな紙のお札)を飲まされたことを覚えている。
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『 皇女和宮降嫁日程 』
文久元年(1861)十一月十五日(二十四日目)皇女和宮は江戸田安御門内にある清水御殿に到着。家茂との婚礼は翌年二月十一日の執り行われたが、慶応二年(1866)家茂は京の地で急逝。共に暮らしたのは二年六ヶ月に満たなく、
子は為さなかった。慶喜が朝廷に大政を奉還すると、静寛院宮(和宮)は徳川家の家名存続と慶喜の助命嘆願に重要な役割を果たし、明治10年8月7日箱根塔ノ沢で病気療養中に死去。享年32歳。
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地蔵通り商店街を道(旧中山道)なりに明治通りを横断して埼京線板橋駅前と進み17号にぶつかる。そこが板橋宿の入口である。
《 六十九次之内壱 板橋宿 》
『板橋宿』 は、江戸四宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つ、日本橋を旅立って最初の宿場である。
多くの旅人はここ板橋宿で別れを惜しんだという。一方、歓楽地としても賑わった宿場でもある。
板橋という地名は、石神井川に架けられた橋名からきたもので、平尾宿(下宿)・仲宿・上宿の三つに分かれている。
中心は仲宿で問屋・本陣・脇本陣・荷物貫目改所等はここにあった。また、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。
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板橋之駅 (渓斎英泉画) |
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今は、商店街として賑わており、本陣碑や石神井川に架かる『板 橋』 や 『縁切榎』(男女の縁を切りたい時にこの榎の樹皮を煎じて相手に飲ませるとその願いが成就するという)などがある。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると宿内家数は五百七十三軒、うち本陣一、脇本陣三、旅籠五十四軒で宿内人口二千四百四十八人で、この人口は中山道の宿村内では最大であった。
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石神井川に架かる板橋 |
板 橋 [拡大表示] |
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仲宿の商店街を抜け17号を暫く行くと、「日本橋より3里」の 志村一里塚 に辿り着く。
ここで我輩と同じく「中山道一人旅」をしている御仁と戸田橋まで同行することになる。
同行の御仁と四方山話しながら国道17号線(中山道)沿いに行くと荒川に架かる 戸田橋 に出る。
杉花粉が飛ぶ風の中、長い~橋を渡り埼玉県入りする。
『戸田の渡し』 は、江戸時代初期の元和二年(1616)には中山道の要所として官設の渡船場がおかれた。この地点には安永元年(1772)に戸田河岸場がおかれて物資の集散点としても機能した。
参勤交代の大名行列や宮様下向などの際は臨時に舟橋も架けられた。
江戸方から板橋宿、志村の一里塚を過ぎた中山道はここを越えなければ蕨宿に辿り着かない。
『戸田橋』 は、荒川に架かる橋で、東北新幹線・埼京線荒川橋梁が東に並んでかかる。明治8年に最初の戸田橋(橋長519m)がかかった。
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戸田橋 |
戸田橋 [拡大表示] |
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ところが、蕨宿に入る手前で道を間違て蕨駅の方に行ってしまい、2キロほど遠回りをしてしまった。
蕨駅前の道を西に戻り旧中山道蕨宿の辿り着く。
中山道本陣跡の資料館などを見学して、近くの讃岐屋で 「肉入りさぬきうどん」 を食べ一息つくことができた。
市では、旧道沿いに古い家屋や歩道には中山道錦絵タイルが貼ってあり、それなりに蕨宿の保存に力をいれているようである。
《 六十九次之内弐 蕨 宿 》
『蕨 宿』は、江戸四宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つ、日本橋を旅立って最初の宿場である。
本陣は文久元年に皇女和宮が休息し、旧道沿いに「蕨本陣跡」の標識(市立の資料館)が建てられている。
なお、戸田の渡しの川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれた。
江戸の昔、蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていた。
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蕨宿 戸田川渡場 (歌川広重画) |
蕨宿 戸田川渡場 [拡大表示] |
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この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられた。
宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていた。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は四百三十軒、うち本陣二、脇本陣一、問屋場一、旅籠二十三軒で宿内人口二千二百二十三人であった。
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蕨 宿を後にして旧中山道を行く、東京外環自動車道のガード下(辻の一里塚跡がある)を潜りぬけると17号線にぶつかったところが六辻である。
六辻と言うだけあって複雑な交差点てあるが、浦和宿に通じる旧中山道は難なく見つけることができた。
調神社では、志村から戸田橋まで同行した御仁と再会したが浦和までとのこと、ここでお別れ。(何処かで再会するかも?)
『辻の一里塚跡』 は、日本橋より数えて五里目。碑の傍らに弁財天がある。
『焼米坂』 は、蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる茶屋が数軒あって、いつしか地名が定着していったようである。
『調神社と兎の神使』は浦和宿の少し手前にある調神社(つき-じんじゃ)は、社伝では少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。
東山道時代は武蔵国の御調物を集め朝廷に届けられた。調(つき)は月に通じる うさぎ が神使となる。
《 六十九次之内参 浦和宿 》
『浦和宿』 は、江戸時代に入って中山道や日光御成街道が整備され、本陣・脇本陣・旅籠・問屋場・高札場等からなる宿場である。
現在は大都市に発展している浦和であるが、江戸に近すぎたことから、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの10宿のうち、8番目と少なかった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は二百七十三軒、うち本陣一、旅籠十五軒、問屋場一、高札場一、自身番所一軒で宿内人口千二百三十人であった。
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浦和宿 浅間山遠景(渓斎英泉画) |
浦和宿 [拡大表示] |
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『玉蔵院』 は、関東十檀林に数えられる名刹である。総ケヤキ造りの山門と地蔵菩薩立像や枝垂桜でしられている。
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調神社 手水舎のうさぎ |
調神社 手水舎のうさぎ [拡大表示] |
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浦和レッズ・レディア像 |
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レディア像
レッズの勝利とあなたの願いごとを心にこめて、手のひらでこのレディアの頭(耳)を3回、鼻を2回なでて下さい。
浦和レッズに勝利をもたらし、あなたの願いごとがかないます。 |
浦和から旧道をさいたま新都心へと進む(浦和駅・北浦和駅・与野駅・さいたま新都心駅・大宮駅と長い道である)。
北浦和駅前の通りには『浦和レッズ・レディア像』あり、さすがに浦和レッズのホームである。
しばらく行くと、右手に氷川神社一の鳥居が見え、ケヤキ並木の氷川神社参道である。今日は氷川神社には参拝せず、途中、塩地蔵・子育て地蔵によってから大宮駅に向かう。
大宮駅前はデパートやビルが立ち並び、大宮宿の面影は無かった。
《 六十九次之内四 大宮宿 》
『大宮宿』 は、元々、氷川神社の門前町として出来たものである。中山道が通るようになってから宿場・市場として栄えた。
中山道が制定される前は一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。
大宮宿の名は神社の雅名としての「大宮」に由来する。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は三百十九軒、うち本陣一、脇本陣九、問屋場四、旅籠二十五軒で宿内人口千五百八人であった。
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大宮宿 富士遠景(渓斎英泉画) |
大宮宿 [拡大表示] |
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『氷川神社』(氷川明神社)は、武蔵国一宮とされる古くからの神社である。
今日の中山道から右手に分岐して氷川神社へ向かって十八町(約2km)ほど続く欅並木の参道がある。毎月の五と十の日には六斎市が立てられていた。
『塩地蔵』 には次のような言い伝えが残っている。
昔、妻に先立たれた浪人が2人の娘とともに旅をしていたところ、この地で病に倒れた。嘆く娘たちはある夜、夢枕に地蔵菩薩を見る。
そのときのお告げに従い、塩断ちをして地蔵堂に祈る娘たちの願いは叶い、父の病は快癒する。
喜んだ娘たちはたくさんの塩と線香を奉納し、のちには浪人はかつての主家に帰参することも叶い、2人の娘も幸せに暮らしたとのことである。
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氷川神社参道 一の鳥居 |
氷川神社参道入口 [拡大表示] |
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大宮駅前通り |
大宮駅前通り [拡大表示] |
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今日は概ね国道17号線(中山道)沿いに、ところどころ旧中山道を歩く旅であったが『山ねずみが歩く中山道』の初日なので少し張り切り過ぎたかも知れない。
日本橋を6時50分に出発して大宮駅に15時45分に到着。所要時間8時間55分(休憩時間25分)、実歩行時間8時間30分、実歩行距離31.4km、歩速約3.7km/時である。
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