山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《3日目》2015年4月16日
熊谷宿 ~ 深谷宿 ~ 本庄宿
 
道中行程
行 程 吹上駅 → 荒川土手 → 熊谷宿深谷宿 → 岡 部 → 牧 西 → 本庄宿 → 本庄駅
距離・時間 34.7km / 8時間45分

 久々の天気、桜も散っしまったが『山ねずみが歩く中山道』 の第3日目である。

早朝のひんやりした空気の中、吹上駅を降り立ち『てくてく道中』の出発である。


『吹 上』は、中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、 それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう千人同心街道の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。

 駅前通りを少し歩き中山道道標に従い左に曲り、高崎線の跨線橋を渡り、榎戸公園、権八延命地蔵の前を通り、熊谷堤(荒川土手)に向かう。

『吹上神社』は、日枝神社を勧請して吹上の鎮守とした。暴れ神輿(喧嘩神輿)で知られる。
『榎戸公園』は、吹上、糠田村に到る八ヶ村への田用水を供給する元荒川の「榎戸堤」があり、風光明媚な所として知られた。
『権八延命地蔵』は、歌舞伎に出てくる「白井権八」にちなむ地蔵、元禄11年の建立された。

 権八延命地蔵を過ぎ、荒川土手(熊谷八丁堤)の延々と続く土手道を熊谷へと向かう。本来は土手の下の旧道を通るのが正解であるが、景色がいい土手道を行くことにする。

『熊谷八丁堤』は、天正二年(1574)鉢形城主北条氏邦が荒川の氾濫に備えて堤を築き、江戸時代には忍藩が修復を行った。 桜並木が有名で「久下の長土手」とも呼ばれ景勝地ではあったが、物騒な所ともいわれていた。
『決潰壊の跡碑』は、昭和22年9月(1947)のカスリーン台風で、この地点の堤防が決壊し付近一帯に甚大な被害を与えた。

中山道道標(吹上駅前)
榎戸公園(榎戸堤)
権八延命地蔵(榎戸付近)
決潰壊の跡碑(熊谷堤)
決潰壊の跡碑(熊谷堤) [拡大表示]
荒川土手(熊谷八丁堤)

 長い長い荒川土手を歩きこと40分程で県道257号にぶち当たり、そこで土手から降り熊谷へと向かう。熊谷駅の手前で秩父鉄道と高崎線の踏切を越えると熊谷宿である。


《 六十九次之内八 熊谷宿 》

『熊谷宿』は、宿の中ほどに熊谷直実ゆかりの寺があり忍藩領で陣屋が置かれた。忍藩の方針で飯盛女が置かれなかった。秩父街道の追分や荒川の船運を控え大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は千七百十五軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒で宿内人口三千二百六十三人であった。

熊谷八丁堤 (渓斎英泉画)
熊谷八丁堤 [拡大表示]

『熊谷直実像』は熊谷駅正面口にある。熊谷次郎直実は永治元年(1141)熊谷寺辺りにあった熊谷館で生まれる。寿永三年(1184)一の谷の合戦で平敦盛を打取るも、世の無常を悟る。 建久三年(1192)久下直光との所領争いに敗れて出家し、京に上り法然の弟子となる。元久二年(1205)熊谷に戻り、館跡に庵を結び、承元二年(1208)九月四日死去した。

『熊谷寺』は浄土宗蓮生山熊谷寺(ようこくじ)、直実が出家し蓮生と号しここに庵を結んだ、この草庵跡に幡随意上人が伽藍を建立したのが始まり、直実の墓もある。
『忍領石標』安永九年(1780)建立の忍藩十万石の領界石で「従是南忍領」と刻まれている。

熊谷銀座1町目
看板に囲まれた熊谷直実像(熊谷駅前)
熊谷直実像(熊谷駅前) [拡大表示]
熊谷寺
熊谷と言えば八木橋百貨店
忍領石標

 熊谷駅前で熊谷直実像を見て、檀家以外立入禁止の熊谷寺をあきらめ、熊谷と言えば「八木橋百貨店」の前を通り、石原付近から旧道に入る。

 旧道を一旦、17号線に出て久保島歩道橋を渡り、東方に向かう。

『東 方』とは、日本武尊が東征の折「東の方は何れにあたるや」と尋ねたことが地名の由来となった。

『観音堂』は、あらゆる苦しみから救い出してくれる観世音菩薩が安置されている。
『熊野大神社』は、天正年間(1573~92)この地に居城を構えた深谷上杉氏の家臣秋元景朝、長朝親子が碓氷峠の熊野神社を勧請したもの。
『見返りの松』は、深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かって旅立つ朝、振り返って前夜ちぎりを交わした遊女と別れを惜しんだという、松はその後枯死した。

観音堂(玉井付近)
熊野大神社(原郷付近)
見返りの松(原郷歩道橋)

《 六十九次之内九 深谷宿 》

『深谷宿』は、深谷城の城下町として栄えたが、江戸期に入ると廃城となった、宿内には五と十の付く日に市が立ち、船運の中瀬河岸を控え、商人町として発展し、 江戸を出立した旅人の二日目の宿泊地にもあたり大いに賑わった。また、旅籠屋が中山道の中でも最も多かった。特に飯盛旅籠が多く、栄泉も描いた女性たちが宿の繁栄を支えた。
明治時代には煉瓦製造が盛んになり、東京の赤煉瓦街を造る源となった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は五百二十五軒、うち本陣一、脇本陣四、旅籠八十軒で宿内人口千九百二十八人であった。

深谷之駅 (渓斎英泉画)
深谷之駅 [拡大表示]

 深谷と言えば 「渋沢栄一」 である。天保十一年(1840)血洗島の農家に生まれる。 尊王攘夷運動に没頭し、慶応三年(1867)徳川慶喜の名代として徳川昭武に随行して渡欧し、明治元年(1868)に帰国し、大隈重信の勧めで、大蔵省に入るも大久保利通と対立して辞職。 以後は実業界で活躍した。

『大谷邸』は、江戸時代からの豪商で堂々とした和洋折衷の建物である。
『滝澤酒造』は、創業文久三年(1863)銘酒「菊泉」の蔵元である。

 現在の深谷は昔の繁栄の面影もなく、人影の少ない町である。丁度、昼時なので食べ物屋を探しながら旧道を歩いたが一件も見っからなかった。

 深谷宿を通り抜けて国道17号に出た所(宿根)でようやく手打ち蕎麦屋を見つけ昼飯にする。(本日は豪華に鴨南せいろ)

 鴨南せいろを堪能した後、国道17号沿いに宿根から岡部と向かう。

『瀧宮神社』は、宿根村の総鎮守、明応五年(1496)大旱魃の時、領主課加賀ノ守源香丹がこの地を掘ったところ、滝の如く水が湧き出した、これを祀って社殿を建立した。

深谷宿 和洋折衷の大谷邸
寂しい町並みの深谷宿
滝澤酒造
深谷宿 とうふ屋(七ッ梅)
宿根滝宮神社

『岡部六弥太忠澄』は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身。源義家の家人として保元・平治の乱で活躍し、源氏十七騎の一人として有名を馳せた。 治承四年(1180)源頼朝が挙兵すると出陣し、木曽義仲を追討し、寿永三年(1184)一の谷の戦いで、平氏の名将平忠度を討ち取った。

岡部を過ぎ17号線を右に別れ旧道を入る。暫く行くと馬頭観音のぶつかり豊見坂を下り滝岡橋に向かう。

『普済寺』は、岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を招いて開山した。境内には平忠度の歌碑がある。
『百庚申』は、豊見坂の途中にあり、幕末の万延元年(1860)庚申の年に建立された庚申塔群、 この年は黒船の渡来や桜田門外の変があり世情騒然としていた。

岡部 普済寺
馬頭観音(岡)
百庚申(岡)

 豊見坂を下り17号線バイパスを横断し藤岡橋を渡ると牧西である。藤岡橋から本庄宿の入口である日の出4丁目まで旧道をくたびれた足を引きずりひたすら歩く。

『藤岡橋』は、秩父山系風早峠に源を発し利根川に落ち合う「小山川」に架かる昭和三年(1928)竣工の鋼製八連橋で国登録有形文化財である。
『宝珠寺』は、文明九年(1477)の五十子の合戦で焼失、慶安二年(1649)家光より御朱印石高十石を賜う。現在の本堂は文政二年(1819)の再建。
『傍示堂』は国境に建立されるもので、かってはこれが武蔵(武州)と上野(上州)の国境であった。

小山川の架かる藤岡橋
宝珠寺(牧西)
宝珠寺(牧西) [拡大表示]
牧西石仏石塔群
内藤歯科医院の長屋門(牧西)
傍示堂跡

 日の出4丁目歩道橋17号線を横断すると2km程で本庄宿である。現在の本庄もご他聞にもれず人影もまばらな寂しい町並みである。

《 六十九次之内十 本庄宿 》

『本庄宿』は利根川の舟運や交通の要衝を控え、二と七の日に市が立ち大いに賑わった、飯盛りが盛んで、助郷に出た若者が村に帰らなくなり、度々取締が願い出された。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は千二百十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠七十軒で宿内人口は四千五百五十四人であった。
『大正院』は、天正十一年の開山、不動堂には不動剣が安置されている。

本庄宿 神流川渡場 (渓斎英泉画)
本庄宿 神流川渡場 [拡大表示]

シャッターに描かれている本庄の偉人「塙保己一」、七歳で失明するも加茂真淵門下の国学者となり、ヘレンケラーの手本ともいわれた。

本庄宿 大正院
人影が見当たらない現在の本庄宿
本庄宿の偉人「塙保己一」

『 皇女和宮降嫁日程 』
文久元年十一月十一日(二十日目)本庄宿田村本陣に宿泊する。

『 水戸天狗党勢軌跡 』
幕末の元治元年(1864)三月、水戸天狗党は攘夷決行を掲げ筑波山で挙兵した、しかしこの挙は謀反とみなされ幕府の追討を受けることみなる。 一同は評議の結果、京のいる徳川慶喜を頼り、再起を図る事とした、慶喜は開国論の大老井伊直弼と対立し、処分を受ける程の尊皇攘夷信奉者であった。
折しもこの年三月将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督として京にあった。 一同は武田耕雲斎を総大将に、山国兵部を大元帥、田丸稲之衛門を本陣、藤田小四郎、竹内百太郎を輔翼にして、天狗勢千余名は十一月朔日八つ(午前二時)大子村から京に向け出立した。

 ところどころに八重桜が咲いている、天気も良く快適な『てくてく道中』であっが、地方都市の衰退を実感した旅でもあった。

吹上駅を6時15分に出発して本庄駅に15時30分に到着。所要時間9時間15分(休憩時間30分)、実歩行時間8時間45分、実歩行距離34.7km、歩速約3.96km/時である。



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