山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《4日目》2015年5月14日
本庄宿 ~ 新町宿 ~(岩 鼻)~ 倉賀野宿 ~ 高崎宿
 
道中行程
行 程 本庄駅 → 本庄宿新町宿 →(岩 鼻)→ 倉賀野宿高崎宿
群馬八幡駅
距離・時間 31.4km / 8時間

 『山ねずみが歩く中山道』も4日目。5月には珍しい台風も過ぎ去り、いよいよ今日は『上州路』入りである。


 登りホームが通勤客で賑わうの本庄駅を降り、駅前の道を少し行くと旧中山道(県道392号勅使河原本庄線)である。

旧中山道中央3丁目交差点を右折すると市立歴史民俗資料館である。再び旧中山道に戻り、本庄宿外れの下仁田街道(上州姫街道)にぶつかる手前に大きな「クスノキ」が聳える金鑚神社がある。

『田村本陣門・旧本庄警察署』は、田村本陣は北本陣と呼ばれ入口前には高札場があった。また、旧本庄警察は文明開化の遺産として市立歴史民俗資料館となっている。
『金鑚神社』は、欽明天皇二年(541)創建の古刹で本庄の総鎮守、社殿等は本庄城主小笠原氏が建立したもの。御神木の「クスノキ」は嘉永十六年(1639)社殿改修時に植栽されたものである。
『浅間神社』は、浅間山古墳の上に祀られている、古墳は直径約38m、高さ約9mの円墳で、古墳時代末期の築造、横穴式石室を残している。

田村本陣門・旧本庄警察
金鑚神社の御神木「クスノキ」
浅間神社(浅間古墳)

 本庄宿に別れを告げ下仁田街道を横断し勅使河原へと向かう。途中「浅間神社」、ここで寄り道をして「金窪城跡」へ、再び中山道に戻る。

『金窪城址』は、平安末期に加治家治が築城し、新田義貞が修築。斉藤実盛の子孫が居城したが、「神流川の合戦」で落城。 その後、家康の世になると川窪氏が入城するも、丹波転封により廃城となる。

『畑時能首塚』は、新田義貞の家臣で四天王随一と言われた。義貞の戦死後も南朝方として戦い、暦応二年越後国で足利方に打たれる。重臣の児玉五郎衛門光信は、主君の首級を携え敵陣を突破し、ここに葬った。

金窪城址

 金窪城址に寄り道したあと再び旧道を神流川に向かう。国道17号線に合流する場所に勝場の一里塚跡と庚申塚、その先が神流川橋である。

『勝場の一里塚跡と庚申塚』は、国道17号線に合流する場所にあり、江戸日本橋より二十三里目である。
『見透燈籠と神流川橋』復元された見透燈籠は、神流川は暴れ川で出水の度に川筋を変え旅人を悩ました。そこで文化十二年(1815)本庄の戸谷半兵衛が見透し線上に燈籠を設置した。
また、浮世絵師英泉は本庄宿として神流川の渡し場風景を描いている、右手に本庄側の見透燈籠、中洲までは仮橋、中洲から新町側は舟渡し、そして遠景に上毛三山(妙義山、榛名山、赤城山)が描かれている。
『神流川古戦場碑』は、天正十年(1582)織田信長が本能寺に倒れると、家臣の滝川一益は信長の仇を討たんと、一万六千の兵を率いて厩橋(前橋)城を出陣。 これに対して北条氏は五万の大軍を神流川流域に進め、両軍は神流川原で激突。滝川軍は戦死者三千七百六十名を出して敗退した。

勝場の一里塚跡と庚申塚
木曽海道六十九次 神流川渡場 (渓斎英泉画)
見透燈籠と神流川橋 [拡大表示]
神流川古戦場碑

『 水戸天狗党勢軌跡 』
一行はこれ以降背後に幕府の田沼意尊を総括とする追討軍の追跡と幕府の討伐令を受けた諸藩との対峙が待ち受ける過酷な旅路となる。 十四日の朝、日光例幣使道から中山道本庄宿を出た。この先下仁田街道を進み、下仁田で高崎藩と激突。これを撃破し、難所「内山峠」を越えて信州に入った。

 神流川橋を渡り、神流川古戦場碑、自衛隊新町駐屯地の前を通り、旧中山道標識から17号線と別れて旧道を新町宿へと入って行く。
旧道を少し入ったところにある諏訪神社、専福寺、於菊稲荷、行在所跡を見て廻る。新町駅入口を通り小林本陣跡の標識を過ぎると新町宿も終わりである。


《 六十九次之内十一 新町宿 》

『新町宿』は、上野七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、宿場がないと何かと不便とのことで、承応二年(1653)落合村と笛木村を合わせて出来た新しい宿場である。 烏川と神流川に挟まれた氾濫原に立地するため洪水に悩まされた。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は四百七軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒で宿内人口は千四百七十三人であった。

新町宿 (歌川広重画)
新町宿 [拡大表示]

『専福寺』は、江戸屋和算の権威、関流八傳田中文五郎信武の墓がある。
『於菊稲荷神社』は、美貌の飯盛於菊は不治の病に倒れ、一心に稲荷に祈願したところ全快し、稲荷神社の巫女となった。
『明治天皇行在所跡』は、明治十一年(1878)明治天皇が北陸東海巡幸の際に宿泊した、木造瓦葺きの平屋建を残している。

 弁天橋を渡りY字路を右に行くと黒板塀と白壁の蔵のある「川端家」の前を通り、関越自動車道の下を潜ると、土手沿いの「高崎伊勢崎自転車道」に出る。日影が一つもない炎天下の土手沿いの道を歩くことになる。
ウォーキングやサイクリングしている人と時たま出くわすが、只々ひたすら歩く。
烏川に架かる柳瀬橋を渡り(昔は舟渡し場があった)岩鼻町に入る、日本化薬群馬工場の社宅の中にある「岩鼻陣屋跡」を見て、倉賀野宿に向かう。

新町宿入口(国道17号を右に入る)
諏訪神社
於菊稲荷神社

『川端家』は、1屋敷は国有形文化財、江戸時代の豪農で明治の世になると生糸貿易で財を成した。
『高崎伊勢崎自転車道』は、烏川・利根川に沿った土手に造られた高崎から伊勢崎に至る自転車専用道である。
『柳瀬ノ渡場』は、宝暦九年(1759)新町宿と倉賀野宿で馬舟五艘、平田舟二艘を用意し、渡賃一人につき十文、荷駄一駄一四文、武士は無賃と定めた、烏川は柳瀬川とも呼ばれた。
『岩鼻陣屋跡』は、寛文五年(1793)に上野、下野、武蔵の幕府直轄領五十万石を支配する為に岩鼻陣屋(代官所)が設けられた。現在は天満宮が祀られている。

旧道を行く
烏川土手沿いの高崎伊勢崎自転車道と柳瀬橋(柳瀬ノ渡場)
高崎伊勢崎自転車道 [拡大表示]
岩鼻陣屋跡

 岩鼻を過ぎ17号線を横切り、高崎線を跨ぎ倉賀野宿に入って行く、宿の入口には石燈籠があり例幣使街道の分岐点である。本陣跡や高札場跡、昔ながらの旧家などが残っている。
昼時であるが宿内には食べ物屋がない、ようやく宿の外れにマクドナルドを見つける。


《 六十九次之内十二 倉賀野宿 》

『倉賀野宿』は、日光例幣使道の追分や烏川と利根川の舟運最上流の倉賀野河岸を控えた、 河岸は信州、上州の廻米や産物を江戸に送り、行徳の塩や干鰯を持ち帰った「烏川が逆さまに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる」といわれ大いに繁盛した。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は二百九十七軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十二軒で宿内人口は二千三十二人であった。

倉賀野宿 烏川之番(渓斎英泉画)
倉賀野宿 [拡大表示]

『日光例幣使道』は、徳川家康の命日四月十八日に行われる日光東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使を例幣使という、 これは毎年(例)幣帛を捧げたところを意味し、この慣例は朝廷にとっては甚だ屈辱的であった為、例幣使の一行は横暴な振る舞いが多く、特に中山道から日光例幣使道に入ると、一層顕著になったという。 近郷の百姓は使役に借り出され大変迷惑したようである。

 ハンバーグとアイスコーヒーで一服した後、強い日差し道「高崎宿」を目指す。17号線を横切り上越新幹線ガードを潜り高崎の町に入って行く。
高崎宿は市庁舎の高層ビルや近代的な街並みで昔の面影は全くない、本町通りをそれて高崎城址公園の木陰で休憩する。

例幣使街道分岐(倉賀野宿)
卯建を上げた旧家(倉賀野宿)
倉賀野の松並木
倉賀野宿高札場跡 [拡大表示]

《 六十九次之内十三 高崎宿 》

『高崎宿』は、三国街道、信州街道の分岐点にあたり大いに賑わい「お江戸見たけりゃ高崎田町」とうたわれた。 天保十四年の中山道宿村大概帳によると、宿内家数は八百三十七軒、旅籠十五軒、人口は三千二百三十五人で、城下町の堅苦しさから諸大名の宿泊は敬遠され本陣、脇本陣は無かった。

高崎宿(歌川広重画)
高崎宿 [拡大表示]

 高崎城址で休憩した後、一旦本町通りに戻る。本町三丁目より左折し旧道赤坂通り「長松寺」を経て「君が代橋」に向かう。 「君が代橋」は自動車道とは別に左脇に歩行者用通路(橋)がある。

高崎駅前通り
高崎市庁舎通り
高崎城堀端

『高崎城址』(旧名:和田城)は、慶長二年(1597)井伊直政によって築城された。かっては三重天守閣と四基の隅櫓を誇っていたが、現在は三の丸外囲の土塁と濠及び昭和に復元された乾櫓と東門があるだけである。
『長松寺』は、書院は高崎城に幽閉された徳川忠長が自刃した部屋を移築したもの。当寺は加賀藩の茶屋本陣を勤めた。
『君が代橋』は、烏川に架かる橋、明治11年9月明治天皇が北陸東海巡幸の際、馬車で木橋を渡ったことを記念して命名された。。

高崎城址 乾櫓と東門
高崎城址 [拡大表示]
長松寺(赤坂通り)
君が代橋

『若宮八幡宮』は、平安末期の永承六年(1051)源頼義、義家父子が奥州安倍氏反乱を鎮圧する途上、先勝を祈願して建立し、寛文二年(1662)幕府代官が社殿の大改修を行った。
『飯野茶屋本陣跡』は、群馬県史跡、「上段の間」を残している、皇女和宮が休息した。
少林山ダルマ は、上毛かるたに“縁起だるまの少林山”とあるように当山が福ダルマ発祥の寺です。ダルマ市は例年1月6日・7日開催、前夜祭から縁日として数十万人の参詣者で賑わいます。

若宮八幡宮
飯野茶屋本陣跡
少林山ダルマ(大門屋)

『 水戸天狗党勢軌跡 』
高崎藩は幕府の水戸天狗勢討伐令に従い、小播七日市藩と連合して下仁田に布陣。十一月十五日合戦となるも連合軍は天狗勢の戦闘能力に及ばず、安中方面に敗走。 戦死者は三十六名、捕虜七名は切腹、人足の三名は斬首。天狗勢の戦死者は五名であった。

 台風一過の好天、真夏を思わせる 炎天下(前橋の最高気温30.9度 道路上はもっと熱い)を休み休み歩いたが結構くたびれた!

本庄駅を6時45分に出発して信越線群馬八幡駅に15時35分に到着。所要時間8時間50分(休憩時間50分)、実歩行時間8時間、実歩行距離31.4km、歩速約3.92km/時である。



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