山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《5日目》2015年9月22日
板鼻宿 ~ 安中宿 ~ 松井田宿
 
道中行程
行 程 群馬八幡駅 → 板鼻宿安中宿 → 原 市 → 松井田宿 → 横川駅      

距離・時間 23.4km / 6時間30分

 好天に恵まれた『Silver Week』の真っただ中、今日は『峠の釜めし』で有名な横川までの旅である。


 八幡駅から10分ほどで中山道(18号線)にでて、「上野国一社八幡宮」鳥居の前を通り板鼻宿に向かう。街道の向こうに浅間山が見えくる。 しばらく行くと道が二又に別れ右に板鼻宿への道を辿る。板鼻橋を渡ると板鼻宿である。

《 六十九次之内十四 板鼻宿 》

『板鼻宿』は、碓氷川の渡しを控え、堅苦しい城下町の高崎を避けた旅人で賑わい、上州七宿では最大の宿場であった。幕末には天領として幕府直轄地となった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は三百十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒で宿内人口は千百二十二人であった。

板鼻宿 (歌川広重画)
板鼻宿 [拡大表示]

『双体道祖神』は、男女の神が並ぶ道祖神は群馬・長野両県に特に多い。
『木島本陣跡』は、皇女和宮が宿泊した書院(和宮資料館)や「月の宮」を残している。
『板鼻堰用水路』は、宿場の北を流れる用水、慶長年間に開削され、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九川の水を取り入れて烏川に注ぐ延長15キロの用水路。

八幡宮の大鳥居
双体道祖神
板鼻宿の宿並

『 皇女和宮降嫁日程 』
文久元年十一月十日(十九日目)板鼻宿木島本陣に宿泊する。和宮は投宿後にわかに変調をきたす。
その際の不浄物を埋めた所に塚を建て「月の宮」と呼ばれるようになった。豊岡の一里塚から倉賀野岩鼻境までは高崎藩が警備に当たり、沿道に藩士・足軽を配備した。

《 中 宿 》

 板鼻宿を過ぎ、碓氷川に架かる鷹之巣橋を渡ると中宿である。信越本線安中駅前を過ぎ、再び碓氷川に架かる久芳橋を渡り、左折して旧中山道に入る。

『中山道板鼻宿渡し場跡』は、渡し場(碓氷川)には鷹之巣茶屋があり、夏は徒歩で渡り、冬は仮橋が架かった。
『庚申塔道標』は、享和二年の建立、「従是一宮大日街道」と刻まれている。

鷹之巣橋より遠く妙義山を望む
碓氷川に架かる鷹之巣橋 [拡大表示]
中宿庚申塔道標
碓氷川に架かる久芳橋

 碓氷川に架かる久芳橋を渡り18号線を左折(旧中山道)すると安中宿(伝馬町)である。
宿場の中程を右折して碓氷郡役所跡・武家長屋などを見学する。再び旧中山道に戻り、少し行くと「新島襄旧宅」案内板があったが先を急ぐことにする。 18号線の交差点を渡り旧道を行く。



《 六十九次之内十五 安中宿 》

『安中宿』は、戦国時代この地は碓氷川と九十九川に挟まれた要害の地であった為、武田と北条の争奪の地であった。 永禄二年(1559)越後の安中忠政が安中城を築き、元和元年(1615)井伊直政の子直勝が街並みを整備し安中宿が出来た。 安中藩三万石の城下町で上位段丘に安中城、下位段丘に安中宿があった。城近くには大名小路に武家長屋が残っている。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十四軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠十七軒で宿内人口は三百四十八人であった。

安中宿 (歌川広重画)
安中宿 [拡大表示]

『武家長屋』は、安中藩では一般的規模のもので、居住していた藩士も中位の身分の者たちであった。現在の建物は四軒長屋として復元したものである。
『新島 襄』は、天保十四年江戸安中藩上屋敷で生まれる。生来才気活発、米国に密航しボストンの神学校で学び、明治八年に帰国する。 教育とキリスト教の布教につとめる。京都に同志社英学校(同志社大学)を設立。

《 原 市 》

 安中宿から西に旧道を行くと天然記念物の杉並木(昔は700本余り、今は10数本にまで減少)がある。また、大きな給水タンクに『安中藩安政遠足図』が描かれている。
郷原の一里塚を過ぎ、単調で長い旧道(県道216号線 長久保郷原線)をひたすら歩くと、特異な山容を見せる 妙義山 が間近に迫ってくる。

『安中原市ノ杉並木』は、国指定天然杵物。「城外行杉森森六里余、是り余が祖先の培植なり」(西征紀行)
『安中藩安政遠足』は、安政二年(1855)安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬の為に遠足(とおあし)を行った。これにちなみ毎年五月の第二日曜日に安中から碓氷峠の熊野神社までの七里半の遠足が行われる。
『原市村戸長役場跡』は、明治四年、太政官布告によりそれまでの町村役人を廃して「戸長」と改称した。

安中藩武家長屋
安中宿木戸跡
天然記念物 安中原市ノ杉並木
安中藩安政遠足図
安中藩安政遠足図 [拡大表示]
原市村戸長役場跡
間近かに迫る特異な山容を見せる妙義山(松井田宿手前より)
間近かに妙義山 [拡大表示]

 18号線と合流してしばらく歩くと、左に旧道があらわれ松井田宿に入って行く。丁度昼飯時、松井田宿でソバを食べようと思っていたが蕎麦屋が見当ら無い、あきらめてカロリーメイトを食べながら歩く。

《 六十九次之内十六 松井田宿 》

『松井田宿』は、信州諸藩の年貢米が集積され、江戸廻米の中継地になっていた。廻米の半分は松井田宿の宿米に払い金(換金)され、 残りの米は倉賀野河岸に運送され、舟運で江戸に廻送された。廻米の取扱い高は多額であり、松井田宿は「米宿」とも呼ばれ大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は二百五十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠十四軒で宿内人口は一千九人であった。

松井田宿 (歌川広重画)
松井田宿 [拡大表示]

『金井本陣跡』は、現在は群馬県信用組合。下の本陣と呼ばれ、問屋を兼ね、上の本陣と一ヶ月交代で勤めた。
『補蛇寺』は、宗洞宗、関東屈指の禅寺。境内には松井田城主大導寺政繁の墓がある。寺域は松井田城の一部を占めている。小田原攻めの際、前田利家等の攻撃の前に落城し、後に自刃した。

松井田宿
松井田宿金井本陣跡
禅寺 補蛇寺

 松井田宿を過ぎ、しばらく歩き五料交差点(18号線)を横断して五料茶屋本陣跡に至る。信越本線の榎踏切を渡り坂道を登ると夜泣地蔵である、ここで一休みとする。
再び信越本線踏切を渡り18号線沿いに途中「百合若大臣の足跡石」の前を通り横川に向かう。

 再度信越本線踏切を渡り、西日があたる暑い信越本線沿いの旧道(この辺にはカメラ持った撮り鉄ファンが大勢いた)を横川駅まで歩く。
ようやく観光客で賑わう横川駅に着く。早速、峠の釜めし で有名な荻野屋で「もり蕎麦」を食べ、「釜めし」をおみやげに買い、帰途に就く。

《 横 川 》

『五料茶屋本陣跡』は、安中藩板倉伊豫守領分五料村にある、信越本線「お東踏切」を横断する。五料茶屋本陣は二件あり、共に中島家が勤め「お西」は本家、「お東」は分家で共に名主を兼ねていた。
『夜泣地蔵』は、馬方が左右の荷の平行を取る為の地蔵の頭を利用し、深谷宿で用が済むと捨ててしまった。毎夜「五料恋しや」と泣き、哀れんだ深谷宿の人が五料村に届けたという。
『茶釜石』は、叩くと茶釜のような金属音を発した。
『百合若大臣足跡の石』は、その昔、百合若大臣という大男の若者がいて力も相当あったらしく、大きな弓と長い矢で、川向うの山に向け「よしあの山の首あたりを射とめてみよう」と思いつき、満身の力をこめて射はなった。 その時、後ろ足をふんばった石の足跡である。

『峠の釜めし本舗』は、信越本線横川駅の「立場茶屋荻野屋」が昭和33年、益子焼の土釜に入った駅弁「峠の釜めし」を作り、人気の駅弁となった。

 
おぎのや「峠の釜めし」
五料茶屋(お東)
信越本線を走る普通列車
信越本線 [拡大表示]
夜泣地蔵・茶釜石

《 快速SLレトロ碓氷号 に乗る 》

遅い昼飯にありつき、釜めしも買い、横川駅の改札に入ると、臨時のSL列車がホームに停まっていた。
車掌に聞くと全席指定とのこと、空席があるか聞いていると、近くの乗客が余分な指定席券があるとのことで譲ってもらう。( Lucky ! )
”にわか乗鉄”蒸気機関車に乗るのは50数年ぶり 『 汽笛の音、煙の臭い 』あ~ 懐かしいの蒸気機関車!!

『快速SLレトロ碓氷号』 は、信越本線の臨時列車、蒸気機関車C6120が牽引する快速SLレトロ碓氷号。客車も旧型客車で、信越本線を高崎駅から横川駅間を1時間3分(時速20キロ位?)で走る。

横川駅の『SL碓氷号』
安中駅に停車中の『SL碓氷号』
高崎駅の『SL碓氷号』
高崎駅の『SL碓氷号』 [拡大表示]
高崎駅の『SL碓氷号』
高崎駅 リゾート『やまどり』

『 皇女和宮降嫁日程 』
皇女和宮は松井田宿で昼食を摂る。坂本から安中宿間は安中藩が警護の任にあたった。藩は助郷として吾妻郡下十九ヶ村に人足八百七人、馬七十四匹、勢多郡十三ヶ村に人足千三百九十六人、利根郡に人足千五百三十六人、馬百十九匹、多胡郡に人足千四百五十一人、馬百七匹、甘楽郡に人足三百四十六人、馬十三匹の動員を割り当てている。

 久々の好天に恵まれた『Silver Week』、蒸気機関車にも乗れて楽しい旅であった!

信越線本線群馬八幡駅を8時10分に出発して信越線本線横川駅に14時40分に到着。所要時間6時間30分(休憩時間15分)、実歩行時間6時間15分、実歩行距離23.4km、歩速約3.75km/時である。



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