山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《8日目》2016年04月25日
八幡宿 ~ 望月宿 ~ 芦田宿 ~(笠取峠)
~ 長久保宿
道中行程
行 程 佐久平駅 = 八幡宿 → 瓜生坂 → 望月宿 → 茂井田 → 芦田宿 →(笠取峠)→ 長久保宿 → 落合橋 → 民宿(泊)
距離・時間 18.2km / 6時間30分

 2泊3日を掛けて沓掛宿から最大の難所和田峠を越えて下諏訪宿まで旅程である。今日は八幡宿から長久保宿までの旅である。


《 六十九次之内二十四 八幡宿 》

 今日は晴天、佐久平駅から高校生で混んいるバスに乗り、八幡神社で降りたのは我輩一人でる。八幡宿は本陣跡以外は往時を偲ばせるものは少ない、ひっそりした宿場である。

『八幡宿』(やわたじゅく)は、八幡の地名は宿内の八幡神社に由来する。千曲川対岸の塩名田宿からの宿間は二十七町と中山道の中で最も短い。千曲川の川止めに備えて脇本陣は四軒あった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百四十三軒、うち本陣一、脇本陣四、旅館三軒で宿内人口は七百十九人であった。

八幡宿(歌川広重画)
八幡宿 [拡大表示]

『八幡神社』は、貞観八年(866)御牧の管理をしていた慈野貞秀の創建といわれる。旧本殿「高良社」(国文化財)は延徳三年(1491)望月城主慈野遠江守光重により建立され、渡来人を祀っている。
『八幡宿本陣跡』は、文化元年(1804)建築の本陣門を残し、代々小松家が勤めた。幕末皇女和宮が宿泊し、下賜された品や貴重な資料が残されている。
『馬頭観世音』は、三体祀られている。

八幡宿入口にある八幡神社
八幡宿本陣跡
八幡宿馬頭観世音

『 瓜生坂付近 』

 八幡宿を過ぎ、百沢の祝言道祖神、布施温泉入口の交差点を渡り、旧中山道「元禄の道標」を見つける。ここから旧中山道「瓜生坂」を登り下りすると望月宿である。

『祝言道祖神』は、安曇野地方で発生した道祖神で宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像で安曇野地方でも例がなく貴重とされている。
『元禄の道標』は、元禄十一年(1698)の建立「右仲仙道」、傍らに中山道牧布施道標識がある。
『瓜生坂』は、古代の古東山道に当たり、峠の東には祭祀遺跡が発見されている。
『長坂の石仏群』は、長坂橋の手前、道祖神や馬頭観音等が多数ある。

百沢の入口
旧道入口「元禄の道標」
瓜生坂より望月宿を垣間見る
瓜生坂頂上 [拡大表示]

《 六十九次之内二十五 望月宿 》

 瓜生坂を下り、長坂石仏群を見て、長坂橋を渡ると望月宿である。本陣跡は現在は小児科医院で、旅籠や問屋跡など往時の面影が残っている。

『望月宿』は、奈良平安時代、この地に御牧(御料牧場)が置かれ、毎年旧暦八月十五日の満月の日(望月)に朝廷に馬が献上され、これが地名の由来になっている。 太田南畝の壬戊紀行によると「今宵の宿の家は土もてぬれる壁なり。木曽路のごとき板家にあらず」と評判もよかった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は八十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅館九軒で宿内人口は三百六十人であった。

望月宿(歌川広重画)
望月宿 [拡大表示]

『大森本陣跡』は、大森小児科医院、大森九左衛門が勤め名主問屋も兼ねた。敷地の大半は歴史民俗資料館になっている。
『大和屋跡』は、国登録重要文化財、旅籠と問屋を兼ね幕末には庄屋も務めた。
『御宿山城屋』は、旅籠山城屋喜左衛門(現業)江戸時代末期の創業、問屋も兼ねた、平入り切り妻造りで木鼻彫刻が施されている。
『大伴神社』は、この地を領した望月氏の庇護を受けた。毎年八月十五日勇壮な火祭り「榊祭り」が行われる。

望月宿の佇まい
望月宿の佇まい [拡大表示]
大森本陣跡
大伴神社

『 茂田井 』

 望月宿を出て畑の中の道を登り国道142号のガードをくぐり、再び長い坂道(結構キツイ坂)を茂田井(もたい)まで歩く。
茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある村で、間(あい)の宿と呼ばれている。往時の面影を残す民家や造り酒屋がある。
『造り酒屋「叶屋」』は、武重本家酒造、明治元年(1868)の創業、国登録有形文化財。
『造り酒屋「蔦屋」』は、銘酒「大吉野」の蔵元大澤酒造は元禄二年(1689)の創業。往時は名主庄屋を勤めた、当家は水戸天狗勢追討の小諸藩の本陣になった。
『茂田井一里塚跡』は、天保年間のは、この両側に土塚があり、榎の根元が残っていた。日本橋より四十六里目。

茂田井の入口
造り酒屋「蔦屋」と茂田井の佇まい
造り酒屋「蔦屋」 [拡大表示]
茂田井一里塚跡

《 六十九次之内十八 芦田宿 》

 茂田井を出て旧道をしばらく行き、立科町役場入口の信号を渡ると芦田宿である。直ぐに通り過ぎてしまいそな小じんまりとした宿場ある。宿の西端にある石打場公園で昼飯にする。

『芦田宿』は、慶長二年(1597)と早くに設置され、笠取峠を控え賑わったが、「芦田の駅わびしき所也、宿あしし、ふ用心也」と評判は悪かった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は八十軒、うち本陣一、脇本陣一、旅館六軒で宿内人口は三百二十六人であった。

芦田宿(歌川広重画)
芦田宿 [拡大表示]

『土屋本陣跡』は、寛政十二年(1800)に再建された御殿は県宝、土屋家は武田信玄二十四将の上席土屋右衛門の末裔で芦田宿の開設に尽力し名主と問屋を兼ねた、門の左手には高札場があった。
『酢屋茂』は、酢の老舗であったが、今は味噌醤油の醸造元。
『男女双体道祖神』は、枡形の名残に男女双体道祖神が二体祀られている。

土屋本陣跡
男女双体道祖神

『 笠取峠 』

 石打場公園を出て芦田宿入口交差点を渡ると、直ぐに笠取峠の松並木が始まる。 赤松の並木道は日影があるので快適に歩くことが出来たが、松並木を抜けると午後の日差しに向って歩く笠取峠までの長い登り坂、汗をかきかき登る事になる。

『松並木』は、1km続く松並木で東海道御油松並木と双璧なしている。国道を迂回させ保護している。
『笠取峠一里塚』は、北塚を残している、塚木は赤松であった、江戸より四十七里目。
『笠取峠』は、標高887m、峠は小諸藩嶺と幕府嶺の境。現在は北佐久郡立科町と小県郡長和町の境。 この峠の名は、風が強く旅人の笠を吹き飛ばすところに由来している。

笠取峠マツ並木道祖神
笠取峠の松並木
笠取峠の松並木 [拡大表示]
笠取峠の一里塚
笠取峠頂上付近
笠取峠頂上付近 [拡大表示]
笠取峠からの古中山道を下る

 笠取峠の茶屋と学者村の看板を見て暫く下るり、国道から古中山道の山道に入る。是を5回ほど繰り返すと松尾神社への指導標を見つけることができた。


《 六十九次之内十九 長久保宿 》

 古中山道を下り長久保宿入口である松尾神社の境内に出る。長久保宿は段丘上に出来た宿場で、下り坂沿いの竪町(本陣)、下り切った所(枡形)の横町(旅籠)から出来ている。

『長久保宿』は、当初依田川沿いの下河原に設けられてが、寛永八年(1631)の大洪水で流失し、段丘上の現在地に移転した。
宿の東に笠取峠、西に難所和田峠を控え、大門道、大内道、北国街道の要衝であり大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百八十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅館四十三軒で宿内人口は七百二十一人であった。

長久保宿(歌川広重画)
長久保宿 [拡大表示]

『松尾神社』は、祭神は「大山昨命」酒造守護神として酒造家の尊信が篤い。
『石合本陣跡』は、真田家の家老を勤めた石合家が代々本陣を勤め問屋と名主を兼ねていた。現存する建物は寛永年間(1624~43)の建築で、中山道で現存する本陣の中で最古のもの。
『一福処濱屋』は、明治初期に旅籠として建てられが開業に至らなかった。現在は長久保歴史資料館。
『釜鳴屋』は、竹内家、銘酒「白菊」の蔵元であった、本卯建をあげた建物は享保十六年(1731)以前の建築。
『枡形と宿場道標』は、「中山道長久保宿左ぜんこうじ」と刻まれている。濱田屋旅館が分岐点。

松尾神社鳥居
長久保宿竪町
石合本陣跡と高札場
枡形と宿場道標(左へ竪町、右へ横町)
枡形と宿場道標 [拡大表示]
長久保宿碑(京口)
大和田橋交差点(右へ 和田宿)
和田宿方面 [拡大表示]

 和田宿を後にし、依田川沿いに国道142号を大和橋に向かう。大和橋からは大門川沿いの大門道を途中落合橋に寄り道、今宵の宿『民宿みや』に到着する。因みに泊り客10人全員が『中山道の旅人』であった。

佐久平駅からバスで八幡神社へ、八幡神社を8時15分に出発して『民宿みや』に14時45分に到着。所要時間6時間30分(休憩時間60分)、実歩行時間5時間30分、実歩行距離18.2km、歩速約3.31km/時である。



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