山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《10日目》2016年10月19日
(塩尻峠)~ 塩尻宿 ~ 洗馬宿
 
道中行程
行 程 下諏訪駅 →(塩尻峠)→ 塩尻宿 → 平 出 → 洗馬宿 → 洗馬駅 = 塩尻駅(泊)
距離・時間 18.2km / 5時間50分

 ようやく天気も安定してきた、秋の木曽路を2泊3日を掛けて下諏訪から木曽福島までを旅する。

 今日は「あづさ1号」で上諏訪駅、飯田線に乗換え下諏訪駅の降り立つのに2時間半以上も掛かってしまった。歩き出す地点まで来るのに時間か掛かるようになってきた。


『 下諏訪から 』

 下諏訪宿は4月に和田峠から下ってきたところで甲州道中の終点でもある。諏訪盆地は海抜759mの諏訪湖を囲むように広がる、日本で一番標高の高い盆地で天竜川は諏訪湖を水源としている。
下諏訪駅を出て国道20号線の左側に沿った旧中山道を歩く「魁塚」「旧渡辺家住宅」「おどり雀の棟飾の旧家」通り、再び国道20号にぶつかる。交差点(傍のコンビ二で「おにぎり」を買う)を渡り、再び旧中山道に入り「今井茶屋本陣跡」「下諏訪岡谷バイパスの跨線橋」を渡り、いよいよ塩尻峠の登りにかかる。

『史跡 魁塚』、ここは赤報隊長相良総三以下幹部八士その他の墓がある。慶応四年(1868)正月江戸城総攻撃のために出発した東山道先鋒教導隊の赤報隊は、租税半減の旗印をたて進んだが朝議一変その他により賊視された。明治三年同志によって墓が造られた。
『旧渡辺家住宅』は、高島藩の散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅跡、村の治安や警備を担っていた。
『雀おどり』は、松本平特有の「雀おどり」棟端飾りがあり、懸魚の飾りが加わる。
『今井茶屋本陣跡』は、西に塩尻峠を控え四軒の茶屋があり四ッ家立場と呼ばれた、今井家が茶屋本陣を勤めた。皇女和宮が休息した門わきには「明治天皇今井御休息所跡」碑がある。

史跡 魁塚
「雀おどり」の棟飾りの旧家
岡谷IC 下諏訪岡谷バイパス
今井茶屋本陣跡 [拡大表示]

『 水戸天狗党勢軌跡 』
天狗勢は下諏訪宿を出立し、伊那街道へ入り天竜川に沿って南下した。行く手の平出宿に高遠藩が布陣していたが、戦意喪失し早々に退散してしまった。 天狗勢一行は平出宿で昼食を摂り、出立した。高遠藩は一行が通過すると砲撃を開始し、追い払ったと繕った。一行は松島宿に宿営した。

『 旧塩尻峠 』

 下諏訪岡谷バイパスの跨線橋を渡り、いよいよ塩尻峠の登りにかかる。「岩舟観音」の鳴沢清水で喉を潤し、「大石」の横を通り塩尻峠の長い坂を登る。 長い急坂を30分程かけて登り切ると「高ポッチ高原」からの道と交差する。
ここが 旧塩尻峠(標高1055m)である。展望台からは眼下に諏訪湖、八ヶ岳連峰が眺められ、富士山、北アルプス等は雲に遮られ見ることが出来なかった。展望台のベンチで先ほど買った「おにぎり」を食べ、峠を後にする。

旧中山道を「上条茶屋本陣跡」「東山の一里塚」を通り、村落が点在するダラダラと曲りくねった長い道を下る。「長野自動車道」の歩道橋を渡ると塩尻宿は近い。

『石船観音』は、本尊の馬頭観音が舟状の台上に安置されている所から石船観音と呼ばれ、足腰の弱い人に御利益ありといわわれる、境内の鳴沢清水は参拝者の喉を潤してきた。
『大 岩』は、木曽路名所図会に「大石 塩尻峠東坂東側にあり、高さ二丈(約6m)、横幅二間余(約3.6m)」と著わされている。諏訪七不思議の一つ。
『旧塩尻峠展望台』からは塩尻側に御嶽、乗鞍、穂高の山並み、諏訪側に諏訪湖、霊峰富士、八ヶ岳連峰、南アルプスが眺望できる。この峠は太平洋側を「表塩」と日本海側の「裏塩」の接点に当たるところから、塩の終着地(尻)を意味する塩尻が地名となった。
『上条茶屋本陣跡』、「立場 上条源治」寛政八年(1796)建築の本棟造り、門、玄関、上段の間、次の間が残されている。皇女和宮はここで休息した。又、ここはフォッサマグナの鞍部に当たり「ナウマン」は明治9年にこの街道を通った。
『東山の一里塚』は、南塚を残している、元和二年(1616)塩尻峠が開通し中仙道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更された、江戸日本橋より五十七里目。

石船観音
旧塩尻峠
展望台より諏訪湖を望む
展望台より諏訪湖 [拡大表示]
上条茶屋本陣跡
東山の一里塚
柿沢橋歩道橋

《 六十九次之内三十 塩尻宿 》

 「長野自動車道」の柿沢橋歩道橋を渡り、しばらく行くと「首塚胴塚」「男女双体道祖神」「高札場」がある塩尻宿の入口である。下柿沢の信号を渡り塩尻宿の中心部に入って行く。 塩尻宿は2度の大火の為、昔の面影がほとんど残ってないない。呆気なく塩尻宿を通り過ぎてしまう。

『塩尻宿』は、伊奈街道(三州街道)、五千石街道(糸魚川街道)、松本街道(善光寺西街道)の要衝で、東に塩尻峠を控え大いに賑わい旅籠数は中山道二番の多さであった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠七十五軒で宿内人口は七百九十四人であった。

塩尻峠より諏訪湖を眺望(渓斎英泉画)
塩尻峠 [拡大表示]

『男女双体道祖神』は、抱擁しているところから「お女郎道祖神」とも呼ばれる。
『小野家住宅』は、元旅籠屋いてふや跡、嘉永三年(1850)の建築(国重要文化財)。
『本陣跡』は、本陣職は小口家から平林家に変わり、明和八年(1771)からは造り酒屋を兼ねた川上家が勤めた、間口二十四間、建坪三百六十七坪で中山道最大の規模であったが明治十五年(1882)の大火で焼失。
『陣屋跡・笑亀酒造』は、塩尻宿は慶長十年(1605)以降に天領となり、享保十年(1725)には幕府直轄領となり陣屋が置かれた。陣屋跡の笑亀酒造は名酒「笑亀」の蔵元。海鼠壁で覆われた穀蔵は国登録有形文化財指定。
『阿禮神社』は、延喜式神名帳に記載された古社。社殿は享保三年(1718)の再建。

塩尻宿入口付近
塩尻宿入口付近 [拡大表示]
塩尻宿 高札場跡
塩尻宿 小野家住宅
塩尻宿本陣跡
陣屋跡・笑亀酒造
塩尻宿阿禮神社

『 水戸天狗党勢軌跡 』
十一月二十一日伊那街道伊那部宿に宿営し、翌日は上穂宿に宿営した。一行は両宿で歓待を受けた、伊那谷は平田篤胤の興した国学が浸透し、尊皇攘夷に好意的であった。 と同時に水戸天狗勢は何よりも強く、軍律は厳しく、宿等への支払いも堅守であるとの風評が伝わった為といえる。

『 洗馬宿手前 』

 塩尻宿を後に下大門交差点を過ぎ、神主が祝詞を上げている「耳塚神社」の前を通り、中央本線のガードを潜り平出への道にでる。平出への道は昭和電工工場の長い長い塀沿いの道で西日に向かってひたすら歩く(多少くたびれた)。
いい加減やになったころで「平出の一里塚」「平出遺跡」に着く、時間が有れば遺跡見学したいところであるが諦める。

平出の一里塚から西日が射す道を中央本線の踏切を渡り暫く行くと国道19号中山道一里塚に出る。ここからは国道沿いにひたすら洗馬をめざす。20分ほど行き平出歴史公園信号を国道から右に分かれ旧道に入る。 洗馬宿に入口「肘掛の松」「分去れ常夜灯」を過ぎ、洗馬宿手前の路地を曲がると洗馬駅にでる。

『耳塚神社』は、天文十七年(1548)桔梗ヶ原の合戦で武田晴信(信玄)と小笠原長時が激突。武田軍が勝利し、討ち死にした将兵の耳を葬った所ともいわれ、耳の聞こえに御利益ありと評判であった。
『平出の一里塚』は、両塚が現存。南塚の塚木は武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と呼ばれ、松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなるといわれて「乳松」とも呼ばれてた。江戸日本橋より五十九里目。宝暦六年(1756)頃には茶屋が二軒あったという。
『平出遺跡』は、縄文時代から平安時代にかけての大集落跡、古墳時代(約千三百年前)の竪穴式住居を復元してしる、また銅鐸出土の北限域でもある。。
『分去れ常夜燈』は、安政四年(1857)の建立、ここが北国西往還(善光寺西街道)の追分。

耳塚神社
平出の一里塚
洗馬宿入口付近
洗馬宿入口付近 [拡大表示]
洗馬宿分去れ常夜燈
分去れ常夜燈 [拡大表示]
洗馬宿の街道

 久しぶりの中山道、晴れて夏を思わせる好天に恵まれた一日であった。しかし、中央線信号故障のため暗くなりかけた塩尻駅に1時間遅れようやく到着。ホテル・ルートイン塩尻に泊り、近くのステーキ屋で生ビールとハンバークの晩餐。

下諏訪駅を9時40分に出発して中央本線洗馬駅に15時30分に到着。所要時間5時間50分(休憩時間20分)、実歩行時間5時間30分、実歩行距離18.2km、歩速約3.3km/時である。



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