山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《11日目》2016年10月20日
洗馬宿 ~ 本山宿 ~ 贄川宿 ~ 奈良井宿
 
道中行程
行 程 塩尻駅 = 洗馬駅 → 洗馬宿本山宿贄川宿 → 平 井 → 奈良井宿 → 民宿(泊)
距離・時間 19.2km / 7時間15分

 今日は洗馬宿から奈良井宿までの旅である。塩尻駅から通勤通学客で混雑する普通列車に洗馬駅まで乗る。


《 六十九次之内三十一 洗馬宿 》

 薄曇りの洗馬駅を下り旧中山道に出ると洗馬宿である。洗馬(せば)宿は度々の大火に遭い宿場の面影はない。早々に通り過ぎて本山宿に向かうことにする。

『洗馬宿』は、慶長十九年(1614)中仙道が塩尻峠経路に付け替えられた際に、塩尻宿、本山宿とともに新設された宿、北国往還善光寺道の追分にあたり大いに賑わった、宿は度々大火に見舞われ、昭和7年の大火で宿並は廃塵に帰してしまった、北陸の鮭や鰤を煮込んだ「洗馬煮」が名物であった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内か家数は百六十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒で宿内人口は六百六十一人、当初松本領であったが、享保十年(1725)幕府直轄領となった。

洗馬宿(歌川広重画)
洗馬宿 [拡大表示]

『高札場跡』は、洗馬宿碑、中山道碑がある、ここが洗馬宿の京(西)口で升形であった、高札場は御判形と呼ばれた。

洗馬宿の佇まい
洗馬宿高札場跡

《 六十九次之内三十二 本山宿 》

 洗馬宿を後にして中央本線のガードを潜り、しばらく歩くと国道19号に合流する。国道沿い行き、溜池のあるところから右に旧道に入ると本山宿である。「旅籠川口屋」など多少昔の面影を留めている。

『本山宿』は、本山宿の入口にあり、木曽路の玄関口として賑わい、松本藩の木曽口の固めとして口留番所が置かれた、本山は「そば切り発祥の地」といわれ、狂歌師蜀山人(太田南畝)は「本山のそば名物と誰も知る、荷物をここにおろし大根」と詠っている。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒で宿内人口は五百九十二人であった。

本山宿(歌川広重画)
本山宿 [拡大表示]

『秋葉神社』は本山宿の入口にあり、庚申塔、供養塔、二十三夜塔等の石仏石塔が祀られている。
『旧旅籠川口屋』は、北から旧旅籠川口屋、池田屋、若松屋の三棟が喰い違いの斜交屋敷形式になっている(国登録有形文化財)。

本山宿入口の秋葉神社
本山宿旧旅籠川口屋
本山宿脇本陣跡

《 是より南木曾路 》

 本山宿を出た先の中央本線の踏切を渡り旧道を行く、再び国道19号に合流して暫く歩くと「是より南木曾路」碑が立っている。(いよいよ南木曾路である・・)

「南木曾路碑付近を歩いていると、車いす乗った男性とサポートする60後半の数人男性に後ろから声を掛けられた。話を聞くと、脳梗塞からのリハビリを目的として中山道を旅しているとの事」

国道沿いを行くと明治天皇が休息した「桜沢茶屋本陣跡」通り、「若神子の一里塚」から右手の道を登り旧若神子村の旧道(土手の道)に入る。
旧道に2ヶ所ほど水場があり左下に国道と中央本線を見ながら土手の草道を歩く、暫く行くと下に贄川駅が見えてくる。

【木曾路】
木曽駒ヶ岳を主峰に西に飛騨の山並み、東に木曽山脈、御嶽山が聳え立つ。この二つの山塊を縫うように、木曽川が深い木曽谷をつくり、美濃へと南下する。この深山幽谷の道が中山道「木曽路」である。

『是より南 木曾路碑』は、木曽路の東口、尾張藩領の東境、島崎藤村著の「夜明け前」の冒頭の一節「木曽路はすべて山の中」の道になる。
『桜沢茶屋本陣跡』は、桜沢立場で茶屋本陣は百瀬家が勤めた。旧家前には明治天皇櫻澤御膳水休碑、明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇櫻澤御駐簾跡碑がある。上段間と次の間を残している。
『若神子の一里塚』は、擁壁上に西塚を残している、江戸日本橋より六十二里目。

是より南 木曾路碑
奈良井川 片平ダム
旧若神子村土手道より中央線特急『ワイドビューしなの』
若神子の一里塚 [拡大表示]

《 六十九次之内三十三 贄川宿 》

 土手の道から国道19号に下り贄川駅に出る。丁度、昼どき、駅のベンチで塩尻で買ったコンビニ「おにぎり」を食べ一休みする。
昼飯休憩後、関所橋歩道橋で中央本線を渡り贄川(にえかわ)宿にでる、「贄川関所」「深澤家住宅」など小じんまりした宿場であるが往時の面影を残している。
宿場の外れから踏切を渡り国道19号に再び出る。

『贄川宿』は、木曽路の東端、いにしえに温泉があったところから熱川(にえかわ)と呼ばれたが枯れてしまい贄川となった、昭和5年の大火で宿並は全焼してしまった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百二十四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒で宿内人口は五百四十五人であった。

贄川宿(歌川広重画)
贄川宿 [拡大表示]

『贄川関所』は、番所が復元されて19号いる、木曽路は尾張藩領で、本山宿の松本藩との領界にあるため、北口に福島関所の副関所が置かれ、「入り鉄砲に出女」や「木曽五木」の搬出を厳しく取り締まり、尾張藩の「北番所」とも呼ばれた。
『深澤家住宅』は、深澤家は屋号を加納屋と称し苗字帯刀が許された贄川宿屈指の商人。主屋は嘉永七年(1854)築、南蔵は文久二年(1862)築、江戸時代末期の木曽地方における宿場の町屋建築の到達点を示す建物といわれてる(国重要文化財)。

JR贄川駅
中央線越しに贄川関所
線路越しに贄川関所 [拡大表示]
贄川関所
贄川宿の佇まい
贄川宿 深澤家住宅

《 旧平沢村 》

 贄川から国道19号沿いに進み、平沢北信号を右手に入り平沢に向かう。旧平沢村は旧街道沿いに立派な漆器店が軒を連ねる静かな町並みである。 旧平沢村を出て中央本線のガードを潜り奈良井川の沿いの土手道を奈良井宿に向かう。

【 旧平沢村 】
旧平沢村は蔓延二年(1861)の大火後、防火対策として奥行きの深い町割とし、隣家との間に余地を残し、塗蔵への通路とした。漆器店が軒を連ねる町並みは「重要伝統的建物群保存地区」になっている。
【 平沢の漆器 】
平沢は木曽漆器の町であるが、往時は奈良井が本場であった。享保九年(1724)奈良井には塗物師四十四軒、桧物師九十九軒があった。その頃平沢村には桧細工に漆を塗るものが十数軒あったにすぎなかった。 塗櫛に執着した奈良井は次第に寂れ、平沢は漆器で発展していった。

旧平沢村(楢川村)入口
漆器店が軒を連ねる町並み(旧平沢村)
漆器店が軒を連ねる [拡大表示]
平 井 物見坂付近
奈良井川沿いの道
奈良井橋を渡ると奈良井宿
皇女和宮御下向行列のポスター
JR奈良井駅 [拡大表示]

《 六十九次之内三十四 奈良井宿 》

 土手道から奈良井川に架かる奈良井橋を渡り、中央本線の踏切を渡ると奈良井駅が見えてくる。駅前を過ぎると昔の宿並みが再現された奈良井宿である。手打ち蕎麦を食べたりして奈良井宿をゆっくり探索する。

『奈良井宿』は、木曽路最大の難所鳥居峠(標高1197m)を控え、また桧物細工、漆器、塗櫛等の木工業が盛んで「奈良井千軒」といわれ「木曽の奈良井か藪原か、麦もとらず飯をたく」といわれた。
木曽路の中で最も標高(940m)が高く、宿長は八町五間(約882m)で上町、中町、下町で構成され、宿機能は中町に集中していた。 宿並は国の「重要伝統的建造物群保地区」に選定され、往時の面影を色濃く残している。

奈良井宿(渓斎英泉画)
奈良井宿 [拡大表示]

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は四百九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五軒で宿内人口は二千百五十五人であった。

『高札場』は、昭和48年に復元、傍らに宮の沢水場がある。
『鎮神社』は、奈良井の鎮守、元和四年(1618)悪疫が流行った際、これを鎮めるため師も下総国香取神宮から「経津主神」を勧請して祀ったとされる。

 奈良井宿の探索を終え、鎮神社の前を通り、くるみ坂の右わきの土手道を登り鳥居峠入口から、少し行ったところある今宵の宿(民宿)に到着する。

奈良井宿の佇まい
奈良井宿の佇まい
奈良井宿の佇まい [拡大表示]
御櫛所 利兵衛
水場と専念寺
奈良井宿本陣跡 [拡大表示]
奈良井宿の佇まい
奈良井宿の佇まい [拡大表示]
奈良井宿の佇まい(枡形跡付近)
奈良井宿 高札場跡
くるみ坂より黄昏行く奈良井宿を振り返る
奈良井宿を振り返る [拡大表示]

 朝の内は曇っていたが日中は晴れて汗ばむ陽気であった。鳥居峠の入口にある80歳過ぎの老夫婦が営む古びた民宿が今夜の宿である。風呂に入り部屋で一息着いていると窓越しに野猿が顔を見せ驚かされる。
夕食は「鮎の塩焼き」「鹿肉と鴨肉のソテー」など野趣な味を楽しみながら、宿の主人と一緒にビールを飲む。
部屋の古テレビは映らないので早々に寝ることにする。

洗馬駅を8時30分に出発して鳥居峠入口の民宿に15時45分に到着。所要時間7時間15分(休憩時間60分)、実歩行時間6時間15分、実歩行距離19.2km、歩速約3.07km/時である。



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