山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《15日目》2017年5月7日
妻籠宿 ~(馬籠峠)~ 馬籠宿 ~ 落合宿
~(十曲峠)~ 中津川宿
道中行程
行 程 中津川駅 = 南木曽駅 → 妻籠宿 →(馬籠峠)→ 馬籠宿 →(十曲峠)→ 落合宿 → 中津川(泊)
距離・時間 19.2km / 8時間50分

 『Golden Week』の最終日、南木曽から東美濃へ「山里の春」を旅をする。

 妻籠か馬籠辺りに宿を取りたかったが、やはり無理であった。前日に中津川駅前のビジネスホテルに泊り、翌朝南木曽駅まで戻ることにする。
前日土曜日は新宿駅からホリディ快速(ダブルデッキの車両)に乗り、甲府駅で鈍行列車の乗り換え、塩尻駅で中央西線の鈍行列車で中津川駅へ。(7時間以上の鈍行列車の旅、たまにはいいか!)


《 南木曽から妻籠まで 》

 早朝の為、南木曽駅に降り立ったのは我輩一人、待合室で「おにぎり」を食べ、妻籠宿に向けて歩き出す。
駅を出てからすぐに中央線の跨線橋を渡り旧中山道に入る。朝もやの坂道を暫く行くと集落が現れ、鬼瓦の様な塚、義仲ゆかりの「かぶと観音」にでる。
所々に躑躅が咲く曲がりくねった道を行く。途中「せん澤道標」「上久保の一里塚」「良寛歌碑」「蛇石道標」などを通り山里の風情を楽しみながら妻籠宿へ。

『かぶと観音』は、木曽義仲が兜の中に納めていた十一面観音を安置している。境内には伐採された「袖振りの松」の水舟や「義仲腰掛石」がある。
『良寛歌碑』は、「手まり上人」といわれた良寛が木曽路を通った折りに詠んだ「この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻よびたてて 小牡鹿鳴くも」。
『蛇石道標』は、自然石道標「中山道蛇石 右つまご宿 左に志ん道 下り道旧道」と刻まれている。

かぶと観音
源臣光照院塚大明神付近
上久保の山里
上久保の山里 [拡大表示]
良寛歌碑
蛇石道標
右に妻籠宿

《 六十九次之内四十二 妻籠宿 》

 山道をしばらく登ると突然「旅籠大吉」が現れる、ここが妻籠宿の江戸口である。
昔の佇まい残す宿並「高札場跡」「本陣・脇本陣跡」「旅籠」「土産物屋」などが軒を連ねている、朝の人影のまばらな宿中を行くと「升形の跡」にでる。
「西の升形」右鍵の手に曲がると「旅籠」「土産物屋」が軒を連ねている。妻籠宿の西端「おしゃごじさま」の祠と古びた関電の発電所がある。川沿いの道を大妻籠に向かう。

『妻籠宿』は、伊那街道との追分を控え賑わっていたが、明治になると主要交通路から外れた為に寂れてしまった。そのため宿並は残り、昭和51年に「重要伝統建造物群保存地区」に指定された。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は八十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒で宿内人口は四百十八人であった。

妻籠宿(歌川広重画)
妻籠宿 [拡大表示]

『口留番所跡』は、地蔵沢橋の江戸より、後に福島関所に統合された、前後が東の升形跡。
『奥谷脇本陣跡』は、問屋を兼ねた、現在の建物は明治10年解禁されたヒノキ造り(国重要文化財)明治天皇小休所碑がある、南木曽町博物館を併設。
『島崎本陣跡』は、代々島崎家が勤め問屋を兼ねた、馬籠宿の島崎家と同族。
『延命地蔵堂』は、文化十年(1813)光徳寺住職中外和尚が蘭川(あららぎ)で、地蔵尊の寝姿が浮き出ている自然石を発見し、これを安置したもの。
『おしゃごじさま』は、段上に土俗信仰の神様である「御左口(みさぐち)神」を祀っている。

口留番所跡
妻籠宿の宿並
妻籠宿奥谷脇本陣跡
妻籠宿延命地蔵堂
妻籠宿 西の枡形跡の宿並
妻籠宿西の枡形跡の宿並 [拡大表示]
おしゃごじさま

《 大妻籠 》

 妻籠宿を出て県道を横断し男垂川に架かる大妻橋を渡り、石畳の道を登ると「大妻籠」である。
『大妻籠旧旅籠』は、大戸を外すと牛馬も入る馬宿。大きな信州型袖卯出梁造りの旧旅籠「まるや」「つたむらや」など数軒の旅籠がある。

《 馬籠峠の登り 》
 大妻籠を過ぎ県道を横断し、再び男垂川の橋を渡り県道に出ると「馬籠峠の登り口」である。
石畳の道で峠へ登りがはじまる。暫らく登っ行くと庚申塚・馬頭観音がある。ここから道が二手に分かれている。
どちらも馬籠峠の道、右手は「男滝・女滝」経由である。「男滝・女滝」を見学し、一旦県道に出てから再び旧道の土道を登る。

大妻橋
大妻籠旧旅籠
馬籠峠登り口
石畳の峠道
男 滝(女 滝)

《 一石栃白木改番所跡 》

 「男滝・女滝」を見た後、峠への本格的な登りがは始まる。途中、樹齢三百年サワラの大樹「神居木」を通り、暫らく登ると桜の花咲く桃源境に辿り着く。 ここが「一石栃白木改番所跡」「一石栃立場茶屋跡」である。
「一石栃立場茶屋跡」の見事と咲く枝垂れ桜(数日前が満開だったらしい)を満喫した後、峠までの最後の登りを頑張る。
県道に出ると其処が標高801mの馬籠峠頂上である。峠の茶店で休んでる人を横目に見ながら峠を後し馬籠宿へと先を急ぐ。 (峠の道では旧中山道を旅する五・六組のYOUグループとすれちがった。)

『一石栃白木改番所跡』は、木曽五木をはじめとする伐採禁止木の出荷統制が行われた。
『一石栃立場茶屋跡』は、牧野家住宅、江戸時代後期の建築。今は妻籠を愛する会が管理していて、お茶も出してくれる。
『馬籠峠頂上』は、木曽と美濃を分ける峠(標高801m)で、「峠の茶屋」脇には正岡子規の句碑がある。

一石栃立場茶屋跡の枝垂れ桜
一石栃白木改番所跡 [拡大表示]
一石栃立場茶屋を振り返る
馬籠峠頂上(標高801m)
馬籠峠頂上 [拡大表示]

《 馬籠宿への下り 》

 峠を下り、県道と別れ右手の旧中山道に入りと「峠の集落」である。ここからの道は旧中山道を示す「茶と白の小石が混ざる」舗装道路で(所々途絶えることがあるが) 迷うことなく歩くことができ、街道を歩く者にとっては便利である。
所々集落が点在する道を「水車塚」などを通り下って行くと、馬籠宿手前の「馬籠上陣馬跡」からは東美濃の名峰 恵那山(標高2191m)を望むことができた。(黄砂の影響で多少霞んでいる)

『峠の集落』は、赤飯に栗を炊き込んだ栗強飯が立場茶屋の名物であった。。
『水車塚』は、石置き屋根の水車小屋がある。明治37年7月、蛇抜け(土石流)により島崎藤村と親交があった蜂谷家が四人が犠牲になった。
『馬籠上陣馬跡』は、小牧長久手の合戦の際、徳川方が馬籠城攻撃の陣を敷いた、広場には藤村の父「島崎正樹歌碑」があり、恵那山が眺望できる。

馬籠峠の下りにある集落
旧中山道石畳
馬籠上陣馬跡から望む恵那山(標高2191m)
馬籠上陣馬跡 [拡大表示]

《 六十九次之内四十三 馬籠宿 》

 「馬籠上陣馬跡」を過ぎ「高札場跡」に出ると馬籠宿である。「高札場跡」から見ると馬籠宿は急坂の途中に出来た宿場であることが分かる。
そろそろ昼飯時である「高札場跡」の近くの「手打ち蕎麦屋」で一寸太切りの田舎風「ざる蕎麦」を食べる。
一休みした後、島崎藤村の生家「島崎本陣跡」「藤村記念館」を見学する。
「旅籠」「土産物屋」が軒を連ねているが、昔の宿場の風情が感じられない。観光客が多く賑わう急坂道を下って行き「西の枡形跡」を過ぎると馬籠宿の西端である。

『馬籠宿』は、馬籠峠と十曲峠に挟まれた、狭隘の地に位置する。水理が悪く度々大火に見舞われ、明治28年と大正4年の大火で石畳道以外は灰塵に帰してしまった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十八軒で宿内人口は七百十七人であった。

馬籠宿(渓斎英泉画)
馬籠宿 [拡大表示]

『島崎本陣跡』は、問屋、庄屋を兼ねた、藤村は最後の当主島崎正樹の末っ子で九歳までここで過ごした。現在は藤村記念館となっている。
『本陣隠居所』は、馬籠宿本陣の建物は、明治28年の大火でほとんど焼失。唯一残ったのが祖父母の隠居所である。(県指定文化財)藤村少年時代、この二階の部屋で平田派の国学者であった父から四書五経の素読を受けた。『夜明け前』や童話集の中にもたびたび登場する。

馬籠宿高札場跡
手打ち蕎麦屋
島崎本陣跡(藤村記念館)
馬籠宿本陣跡
坂の宿場「馬籠宿」
西の枡形跡 [拡大表示]

《 落合宿への道 》

 観光客で賑わう「馬籠宿」過ぎ、うす曇り(黄砂の影響?)の中「落合宿」へ向かう。「馬籠城址」「新茶屋の一里塚跡」を通り旧中山道を下って行く。
県道と別れ、石が敷れた「落合の石畳」のうす暗い道を歩く。何時の間にか「十曲峠」の越えていた。暫らく歩くと落合川にぶつかり、下桁橋を渡ると落合宿である。

『馬籠城址』は、丸山城ともいう。天正十二年(1584)木曽義昌方の島崎重道(藤村の祖)が守備したが、上陣馬に布陣した徳川勢の大軍の前に、城を捨て妻籠城に撤退してしまった。
『新茶屋の一里塚跡』は、両塚を残している。江戸日本橋より八十三里目。西塚には「国境」標石がある、ここが信濃美濃の国境であった。
『北木曽路碑』は、島崎藤村の揮毫「是より北木曽路」と刻まれている。
『落合の石畳』は、十曲峠の道、全長830mで途中三ヶ所に往時の石畳を残している。
『十曲峠』は、太田南畝の壬戌紀行「美濃と信濃境は十曲峠にあり。石まじりの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を三四町ばかりまがりてのぼれば、落合の駅舎は遥かなる下に見ゆる。十こく峠という」と著わし、難所であった。

落合宿への道
新茶屋の一里塚跡
落合の石畳

《 六十九次之内四十四 落合宿 》

 「落合宿」は昔の面影が少ない寂しい宿場(映画「十三人の刺客」の舞台となった宿場)である。 日曜日だけ地元のボランティアが管理してい無料公開の「井口本陣跡」を見学する。本陣の母屋は他の中山道本陣の中でも1・2を争う立派なものである。

『落合宿』は、美濃路東端、三と六の日に六斎市が開かれ、火縄が名物で水中でも消えないといわれた。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は七十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒で宿内人口は三百七十人であった。

落合宿(歌川広重画)
落合宿 [拡大表示]

『井口本陣跡』は、本陣門は文化十二年(1815)の大火で焼失後、加賀前田家により寄贈されたもので防火造りになっている。皇女和宮降嫁の際、上段の間で休息した。
『落合宿助け合い大釜』は、文久元年(1861)皇女和宮の大通行時に、4日間で延べ約2万6千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしするため、各家の竈は引きも切らさず焚きつづけられた。 この「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時きに使用されたもので、容量は1000㍑を越えるものである。
『善昌寺の門冠の松』は、慶長五年(1600)の創建、宿並に突き出た「門冠の松」は樹齢四百五十年。

落合宿高札場跡
寂しい落合宿
落合宿井口本陣跡
落合宿助け合い大釜
善昌寺「門冠の松」

『 水戸天狗党勢軌跡 』
落合宿で隊列を整えた水戸天狗勢は中津川宿に入り昼食を摂る。総大将武田耕雲斎、田丸稲之衛門、山国兵部、藤田小四郎の四人は市岡長右衛門本陣に入る。本陣当主は平田篤胤門下の国学者であり、同じ志を持つ同士として一同を篤くもてなした。 隊士たちには昼食の他に名物五平餅が振舞われ、田丸はこれに感謝し、甲冑の小袖を市岡に与えた。

《 中津川宿手前 》

「馬籠宿」を出て「与野の一里塚跡」を通り、中津川バイパスの地下道を潜るとると中津川宿も間近である。
茶屋坂を下り「中津川宿」の入口である「高札場跡」に出る。東西に走る旧中山道を四ッ川橋を渡ると中津川宿の中心部である。

『子野の一里塚跡』 は、わずかに碑塚の痕跡を残しいる復元されている、江戸日本橋より八十四里目。
『地蔵堂跡』 は、枝垂れ桜の下に元禄七年建立の庚申塔等がある。
『高札場跡』 は、復元されている、並びに常夜燈、庚申塚、二十三夜燈がある。

 前日から降っていた小雨も止み、春の日差し中「山里の春」を満喫した一日であった。
峠越えでくたびれた体を休めに、駅前の侘しい安宿へ
晩飯は何にしようかな・・・

子野の一里塚跡
中津川宿 高札場跡・常夜燈

南木曽駅を7時20分に出発して中津川宿に16時10分に到着。所要時間8時間50分(休憩時間50分)、実歩行時間8時間、実歩行距離19.2km、歩速約2.4km/時である。



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