『問屋丸森跡』は、国登録有形文化財。現在は宿案内所を兼ねている。
『皇女和宮歌碑』は、大湫小学校の門脇にある。
「 遠ざかる 都を知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
おもいきや 雲井の袂 ぬきかえて うき旅衣 袖しぼるとは 」
『本陣跡』は、大湫を開村した保々家が勤め、問屋、庄屋を兼ねていた。
『神明神社』境内の「大杉」は樹齢千三百年(県天然記念物)。
『高札場』は、復元されている。ここが京(西)口にあたる。
『 皇女和宮降嫁日程 』
十月二十八日(八日目)大湫宿保々本陣に宿泊する。大湫宿は飲料水の確保に腐心し、現在に残る「湧清水井戸」「筧水」は皇女和宮通行の際に開削されたもの、
十月二十七日からの四日間大湫一宿で継立人馬述べ人足二万八千二百人、八百十九疋を動員した。
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大湫宿高札場 |
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《 大湫宿から細久手宿への道 》
大湫宿を後にして旧中山道を進む、街道の右手に大きな岩「二つ岩」を見て、程なくして左手に大湫病院がある。病院の先に「琵琶峠東上り口碑」があり右手の石畳の道を琵琶峠へと上って行く。
林のなかの道「琵琶峠」をいつしか通り過ぎ「八瀬沢の一里塚」も過ぎ、暫く歩くと県道65号に合流する。
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ここから暫く県道を歩く事になるが「歴史の道中山道道標」のところで間違えて「東海道自然歩道」に入ってしまい2km程遠廻りしてしまった。(この辺りは「旧中山道」と「東海道自然歩道」が入り混じっている)
何とか中山道に戻り、再び中山道を「弁財天の池」「奥之田の一里塚」等を通って細久手宿に辿り着くことができた。
『中山道 二つ岩』は、花崗岩の露頭があり、烏帽子岩と母衣岩からなる(陰陽石)。
『琵琶峠と石畳』は、美濃路最高地点(548m)。峠から八瀬沢まで、江戸時代の石畳としては最長(730m))。
峠には 「住み馴れし都路出でてけふいくひ 急ぐもつらき東路のたび」 の碑がある。
『弁財天の池』は、神秘的な池でカキツバタやジュンサイが自生し、中の島には天保七年(1836)建立の石祠内に天文五年(1536)建立の弁財天像が安置されている。
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琵琶峠の石畳 |
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《 六十九次之内四十八 細久手宿 》
「細久手宿」は何もない寂しい宿場である。早々に「細久手宿」唯一の宿「大黒屋旅館」に投宿する。
今晩の泊り客は我輩1人(二階の2間を独占する)である。夕食は鮎の塩焼き、鯉の煮付け、山菜の天ぷら等、山里の味を堪能させてもらった。
『細久手宿』は、大湫宿から御嶽宿まで四里三十町と長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え人馬共に難渋を極めた。そこで大湫宿より更に遅く慶長十五年(1610)に新設された。
宿並は寛政十年(1798)、文化十年(1813)、安政五年(1858)に大火に見舞われ、今の町並みは安政の大火以後のもの。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒で宿内人口は二百五十六人であった。
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細久手宿(歌川広重画) |
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『庚申堂』は、享和二年(1802)宿の鬼門除けとして建立、境内には石仏石塔群がある。
『大黒屋旅館』は、慶長年間から続く家。美濃型卯建を持ち、1階には書院付座敷がある。安政六年(1859)の再建、問屋を勤め尾張藩の定本陣であった。
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夏のような日差しであったが、木陰の多い山道、お蔭で熱中症にもならず「長い~起伏の多い道」を何とか「細久手宿」に辿り着くことができた。
恵那駅前を9時に出発して細久手宿(大黒屋)に16時30分に到着。所要時間7時間30分(休憩時間60分)、実歩行時間6時間30分、実歩行距離20.1km、歩速約3.07km/時である。
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