山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《17日目》2017年9月13日
大井宿 ~ 大湫宿 ~(十三峠)~ 細久手宿
 
道中行程
行 程 恵那駅 → 大井宿大湫宿 →(十三峠)→ 細久手宿(泊)      

距離・時間 20.1km / 7時間30分

 5月以来の中山道である。今日は大井宿から難所十三峠を越えて細久手宿までの旅である。

東京を始発の新幹線で名古屋、中央線に乗り換え恵那駅に到着。天気は良さそうである。


《 大井宿から十三峠を越えて大湫宿への道 》

 恵那駅前通りの信号を右に曲り旧中山道に入る。大井宿京口近くの「中野村庄屋跡」を通り、坂の上の交差点を渡り暫く行くと「西行硯水」である。
 「西行硯水」から更に進むと西行塚道標がある。道標の右手の道に入り、中央線の踏切を渡り中央高速高架を潜ると、いよいよ十三峠(距離は約13.5kmで標高は350mから550m)の起伏の多い道が始まる。
西行塚のある西行坂を上ると尾根道(旧中山道)となる。この辺りは「桜百選」に選ばれた桜の名所でもある。

「槇ヶ根の一里塚」「槇ヶ根立場跡」「姫御殿跡」「姫御殿跡」「首なし地蔵」などを通り起伏の多い尾根道を紅坂に向かう。

『中野村庄屋跡』は、大井宿京口をでたところにあり屋号を本酒屋という。洪水に備えた「浸水防止壁」がある。
『西行硯水』は、「北面の武士」であった西行は出家し、この地に竹林庵を結び三年間を過ごした。ここの泉水で墨を磨り歌を詠んだ。
『十三峠碑』は、西行坂の石畳道が始まるところにあり「是より西 十三峠」と刻まれている。
『十三峠』は、大井宿から大湫宿まで三里半で「西行坂、槇ヶ根坂、乱れ坂、お継原坂、紅坂、平六坂、黒すくも坂、西坂、茶屋坂、新道坂、観音坂、権現坂、鞍骨坂おまけに七つ」計20の坂。

中野村庄屋跡
西行硯水(後ろ奥に中央線)
中央本線の踏切を渡り十三峠へ
西行塚道標(右に) [拡大表示]
十三峠入口
西行塚

『槇ヶ根の一里塚』は、両塚を残している、江戸日本橋より八十八里目。
『槇ヶ根立場跡』は、幕末には槙本屋、水戸屋、東国屋、松本屋等九軒の茶屋があり、餅、草履、お六櫛等を商っていた。
『槇ヶ根追分道標』は、下街道との追分にあり茶屋が9軒あった。
明治8年建立の道標「右 西京大阪 左 伊勢名古屋道」がある、下街道は土岐、多治見を経て名古屋、伊勢に至る。
『姫御殿跡』は、祝峠と呼ばれる見晴らしの岡に建っていた。皇女和宮降嫁の際、岩村藩の御用蔵から運んだ無節の桧の柱や白綾の畳を敷いた御殿を建てて休息所とした。
『首なし地蔵』は、大名行列も乱れたいう急坂に立つ。宝暦六年(1756)の造立、二人の中間が地蔵前で昼寝をしていたが、一人が眼を覚ますと、共の首がない。怒った中間が「仲間襲われたのに黙って見ているとは何事ぞ」と地蔵の首を刀で切り落としてしまった。

桜百選の尾根道
槇ヶ根の一里塚 [拡大表示]
槇ヶ根立場場茶屋跡
左手の岡が姫御殿跡

『 水戸天狗党勢軌跡 』
岩村藩は水戸天狗勢を迎え討つべく槇ヶ根に陣を張ったが、戦わずに通過させてしまった。

《 紅坂付近 》
 「紅坂の一里塚」の傍で休憩(おにぎりを食べ)する。再び起伏の多い道を「藤村高札場跡」「深萱立場跡」「権現坂」「巡礼水」「三十三観音石窟」などを通り、長い旧中山道をひたすら歩き「大湫宿」をめざす。
「権現山一里塚」あたりの道はゴルフ場の中を通っており、ボールを打つ音が聞こえてくる。「是より東十三峠碑」を過ぎると「大湫宿」も間近である。

『紅坂の一里塚』は、両塚を残しており、江戸日本橋より八十九里目。
『藤村の高札場跡』は、大井宿と大湫宿の中間にあたる深萱立場にされた高札場。栗おこわや餅が名物であった。
『三社燈籠』は、嘉永七年(1854)深萱立場茶屋本陣当主加納三右衛門が奉納したもの。
『炭焼立場跡』は、眺望が良く十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場。
『巡礼水』は、ここで病になった巡礼の母娘が念仏を唱えると、目の前の大岩から湧き出したという「お助け清水」。
『三十三観音石窟』は、天保十一年(1840)の建立。

栗と紅坂の一里塚
藤村の高札場跡
三社燈籠
三社燈籠 [拡大表示]
観音坂付近
権現山一里塚付近の巡礼水
三十三観音石窟
是より東十三峠碑

《 六十九次之内四十七 大湫宿 》

 「大湫宿」は静かな佇まいの宿場である。大湫小学校の門脇にある「皇女和宮歌碑」を見て、「問屋丸森跡」の案内所に立ち寄り冷たいお茶の接待うける。 案内所では飲食が出来ないので、向いにある公民館のロビーを借りて携帯食をたべる。
小休止の後、神明神社の樹齢千三百年の大杉を見て、宿外れにある「高札場」を過ぎると大湫宿も終わりである。

『大湫宿』(おおくてじゅく)は、慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に新設された宿場、東に十三峠、西に琵琶峠を控え小宿ながら旅籠は多かった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒で宿内人口は三百三十八人であった。

大湫宿(歌川広重画)
大湫宿 [拡大表示]

『問屋丸森跡』は、国登録有形文化財。現在は宿案内所を兼ねている。
『皇女和宮歌碑』は、大湫小学校の門脇にある。
        「 遠ざかる 都を知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
          おもいきや 雲井の袂 ぬきかえて うき旅衣 袖しぼるとは 」

『本陣跡』は、大湫を開村した保々家が勤め、問屋、庄屋を兼ねていた。
『神明神社』境内の「大杉」は樹齢千三百年(県天然記念物)。
『高札場』は、復元されている。ここが京(西)口にあたる。

『 皇女和宮降嫁日程 』
十月二十八日(八日目)大湫宿保々本陣に宿泊する。大湫宿は飲料水の確保に腐心し、現在に残る「湧清水井戸」「筧水」は皇女和宮通行の際に開削されたもの、 十月二十七日からの四日間大湫一宿で継立人馬述べ人足二万八千二百人、八百十九疋を動員した。

大湫宿(国登録有形文化財)問屋丸森跡
小学校門脇の皇女和宮歌碑
大湫宿本陣跡
大湫宿 神明神社(県天然記念物大杉)
大湫宿高札場
大湫宿高札場 [拡大表示]

《 大湫宿から細久手宿への道 》

 大湫宿を後にして旧中山道を進む、街道の右手に大きな岩「二つ岩」を見て、程なくして左手に大湫病院がある。病院の先に「琵琶峠東上り口碑」があり右手の石畳の道を琵琶峠へと上って行く。
林のなかの道「琵琶峠」をいつしか通り過ぎ「八瀬沢の一里塚」も過ぎ、暫く歩くと県道65号に合流する。

ここから暫く県道を歩く事になるが「歴史の道中山道道標」のところで間違えて「東海道自然歩道」に入ってしまい2km程遠廻りしてしまった。(この辺りは「旧中山道」と「東海道自然歩道」が入り混じっている)

何とか中山道に戻り、再び中山道を「弁財天の池」「奥之田の一里塚」等を通って細久手宿に辿り着くことができた。

『中山道 二つ岩』は、花崗岩の露頭があり、烏帽子岩と母衣岩からなる(陰陽石)。
『琵琶峠と石畳』は、美濃路最高地点(548m)。峠から八瀬沢まで、江戸時代の石畳としては最長(730m))。 峠には 「住み馴れし都路出でてけふいくひ 急ぐもつらき東路のたび」 の碑がある。
『弁財天の池』は、神秘的な池でカキツバタやジュンサイが自生し、中の島には天保七年(1836)建立の石祠内に天文五年(1536)建立の弁財天像が安置されている。

大湫宿の先にある 二つ岩
琵琶峠東登り口碑
琵琶峠の石畳
琵琶峠の石畳 [拡大表示]
琵琶峠西上ノ口
神秘的な「弁財天の池」

《 六十九次之内四十八 細久手宿 》

 「細久手宿」は何もない寂しい宿場である。早々に「細久手宿」唯一の宿「大黒屋旅館」に投宿する。
今晩の泊り客は我輩1人(二階の2間を独占する)である。夕食は鮎の塩焼き、鯉の煮付け、山菜の天ぷら等、山里の味を堪能させてもらった。

『細久手宿』は、大湫宿から御嶽宿まで四里三十町と長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え人馬共に難渋を極めた。そこで大湫宿より更に遅く慶長十五年(1610)に新設された。 宿並は寛政十年(1798)、文化十年(1813)、安政五年(1858)に大火に見舞われ、今の町並みは安政の大火以後のもの。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒で宿内人口は二百五十六人であった。

細久手宿(歌川広重画)
細久手宿 [拡大表示]

『庚申堂』は、享和二年(1802)宿の鬼門除けとして建立、境内には石仏石塔群がある。
『大黒屋旅館』は、慶長年間から続く家。美濃型卯建を持ち、1階には書院付座敷がある。安政六年(1859)の再建、問屋を勤め尾張藩の定本陣であった。

細久手宿の庚申堂
寂しい佇まいの細久手宿
今宵の宿 大黒屋旅館
大黒屋旅館の階段
大黒屋旅館の二階

 夏のような日差しであったが、木陰の多い山道、お蔭で熱中症にもならず「長い~起伏の多い道」を何とか「細久手宿」に辿り着くことができた。

恵那駅前を9時に出発して細久手宿(大黒屋)に16時30分に到着。所要時間7時間30分(休憩時間60分)、実歩行時間6時間30分、実歩行距離20.1km、歩速約3.07km/時である。



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