山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《18日目》 2017年9月14日(木)
細久手宿 ~ 御嶽宿 ~ 伏見宿 ~(今戸の渡し)
~ 太田宿
道中行程
行 程 細久手宿御嶽宿伏見宿 →(今戸の渡し)→ 太田宿 → 美濃太田駅(泊)
距離・時間 24.6km / 8時間50分

 今日は細久手宿から太田宿まで美濃路を歩く旅である。

朝食を済ませ、大黒屋のご主人と女将さんに見送られて旅立つ。今日も暑くなりそうである。


《 細久手宿から御嶽宿への道 》

 細久手宿を出て旧中山道の里山の道を暫らく歩くと「平岩辻」にでる。平岩橋を渡り県道を横断し、西の坂口を左の土道に入り坂道を上り、道標「南まつのこ おに岩道 西つはし みたけ道」がある。
山道(旧中山道)を「秋葉坂の三尊石窟」「鴨之巣の一里塚」「御殿場跡」「謡坂」「耳神社」などを通り、国道21号線(中山道)にでる。 右手の畑の中に「和泉式部陵所」がある。国道を暫く歩き、井尻の交差点を右に国道142号を御嶽方面に進む。

『秋葉坂の三尊石窟』は、明和五年(1768)建立の三面六臂馬頭観音、明和七年建立の一面六臂の千手観音、石仏が石窟内に安置されている。
『鴨之巣の一里塚』は、両塚の位置がずれている。江戸日本橋より九十三里目、塚の上からは鈴鹿連峰、伊吹山、北アルプスの山並みや尾張熱田の海が一望できたという。
『御殿場跡』は、皇女和宮通行の際、休息の為の御殿が造られた。御殿場展望台からは東に恵那山、北に御嶽山、そして中央に笠置山が望める。
『謡坂の石畳』は、牛の鼻掛け坂からこの坂へと続く坂道を息を切らせた旅人が苦しさをまぎらわせため唄を謡いながら坂を上ったという。
『耳神社』は、耳の病にご利益がある、病が平癒すると錐を奉納する習慣があり、年齢の数だけ簾状にして吊り下げる。
『和泉式部陵所』は、平安時代中期の女流歌人。和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、 恋多き女性としてしられています。波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の赴くままに東山道をたどる途中御嶽の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していたが、寛仁三年(1019)この地で没したという。 歌碑には「ひとりさえ 渡ればしずむ うきはしに あとなる人は しばしとどまれ」と刻まれている。

平岩辻付近
鴨之巣の一里塚
謡坂の石畳
道 標(井尻村付近)
和泉式部陵所

『 水戸天狗党勢軌跡 』
一行は大湫宿で昼食を摂った、謡坂を通過する際、耳神社の幟を敵軍の旗指物と間違え臨戦態勢をとって坂を下り、御嶽宿に宿営した。 翌朝宿泊料その他の支払いを済ませ、清掃をして出立した。

《 六十九次之内四十九 御嶽宿 》

 国道142号と分かれ旧中山道を「御嶽宿」に入って行く。昔の面影はあまり残っていないが、江戸時代の商家建築様式を残す「商家竹屋跡」内部を見学する。近くの休憩所(御嶽宿わいわい館)で「ざるそば」を食べる。 名鉄御嵩駅前を右に曲がり、再び国道21号線(中山道)に出る。

『御嶽宿』は、願興寺(蟹薬師)の門前町として栄え、東に細久手、大湫への難所を控え大いに賑わった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒で宿内人口は六百人で尾張藩領であった。

御嶽宿(歌川広重画)
御嶽宿 [拡大表示]

『商家竹屋跡』は、本陣野呂家の分家、主屋等は明治10年の建築。商家にふさわしい質素で風格のある造りで江戸時代の建築様式が残されている。
『御嶽宿本陣跡』は、代々野呂家が勤めた、建坪百八十一坪で、本陣門は往時のもの。

御嶽宿の宿並
御嶽宿 商家竹屋跡
商家竹屋跡内部
御嶽宿本陣跡
名鉄御嵩駅

《 御嶽宿から伏見宿への道 》
 御嶽宿を出て再び国道21号線(中山道)を歩く。ここからは途中旧道を歩く事もあるが伏見宿まで日影の無い暑い国道を歩く事になる。
「鬼の首塚」「正岡子規歌碑」など通り、暫らく歩くと可児川が現れる。可児川沿いに行き「比衣の一里塚」から旧道に入ると「伏見宿」は近い。

『鬼の首塚』は、「鬼の太郎」と呼ばれる悪漢が里人を困らせていた、地頭が蟹薬師に祈願さたところ、祭礼の日に女装をして現れるとのお告げがあり、これを捕えて首を刎ねここに葬った。
『正岡子規歌碑』は、「草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立」。

鬼の首塚
正岡子規歌碑
国道と並行して流れる可児川

《 六十九次之内五十 伏見宿 》

 国道(中山道)沿い伏見公民館の前に「伏見宿本陣之跡」「尾張藩領界石」の石碑が建っており宿場の面影はない。
伏見信号「兼山道道標」の傍にある休憩所で一休み。

『伏見宿』は、木曽川の新村湊を控え、荷の集積地として賑わい、「太田の渡し」が川止めになると旅人であふれた。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は八十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒で宿内人口は四百八十五人であった。

伏見宿(歌川広重画)
伏見宿 [拡大表示]

『本陣跡』は、伏見公民館前に「伏見宿本陣之跡」と「尾張藩領界石」石碑がある。代々岡野予治衛門が勤めた。
『兼山道道標』には、「右御嶽」「左兼山 八百津」と刻まれている。斉藤道三の養子斉藤正義が築いた兼山城に通じる。

伏見宿本陣跡
昔に面影がない伏見宿
伏見宿犬山道道標

《 伏見宿から今戸の渡し 》

 伏見宿を出て、西日が射す暑い国道を太田宿を目指してひたすら歩く、「恵土の一里塚跡」を過ぎ愛知用水に架かる大東橋を渡っところで国道と分かれ旧中山道に入って行く。 暫らく歩き富士浅間神社のY字路を右折すると木曽川に架かる太田橋が見えてくる。橋の袂に「今渡の渡し場跡」碑がある。
太田橋の歩行者専用橋を渡り、左手の木曽川の土手道(ようやく日射しも和らぐ)を「太田の渡し場跡」「古井の一里塚跡」を通り太田宿の東(江戸)口に辿り着く。
『恵土の一里塚跡』は、中恵土地下道脇に「中山道一里塚の跡」碑がある。碑には「これより約30メートル東」と刻まれている、江戸日本橋より九十七里。
『今渡の渡し場跡』は、ここに宿屋、茶屋が軒を連ね湊町として賑わった。対岸には太田の渡し場があった。

恵土の一里塚跡
今渡の渡し場跡
木曽川に架かる太田橋
太田橋を渡る [拡大表示]

《 六十九次之内五十一 太田宿 》

 太田宿の東口の休憩所で「冷たいお茶」をもらい、地元の老紳士と話をしながら一服する。
太田宿は宿場の面影は残っており「上町の升形跡」「太田稲荷神社」「祐泉寺」、門だけが残る「福本本陣跡」、「林脇本陣跡」内部を見学する。
再び太田宿の東(江戸)口に戻り、今夜の宿のある高山本線美濃太田駅に向かう。

『太田宿』は、太田の渡しと舟運を控え、飛騨街道、郡上の分岐にあたり、大いに賑わった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒で宿内人口は五百五人であった。

太田宿(歌川広重画)
太田宿 [拡大表示]

『太田稲荷神社』は、境内には播隆上人や木曽川の景観を「日本ライン」と名付けた地理学者志賀重昴の墓標がある。
『十六銀行旧太田支店跡』は、明治四十年(1907)の建築。
『祐泉寺』は、瀧場観音は宿の大火でも焼失を免れ「火伏観音」呼ばれる。境内には芭蕉句碑や坪内逍遥、北原白秋の歌碑がある。
『旧旅館小松屋』は、江戸時代末期の町屋建築。
『林脇本陣跡』は、大田村庄屋、尾張藩勘定所を兼ね、播隆上人はここで亡くなり、板垣退助は投宿した翌日岐阜で暗殺された。
『福田本陣跡』は、庄屋を兼ねた、本陣門(薬医門)は皇女和宮降嫁の際に新築されたもの。

太田稲荷神社
太田宿 祐泉寺
太田宿の宿並
太田宿 旧旅館小松屋 [拡大表示]
太田宿 林脇本陣跡
太田宿 福田本陣跡

『 皇女和宮降嫁日程 』
十月二十七日(七日目)福田本陣に宿泊する。太田宿記録によると人馬継立七千八百五十六人、二百八十疋、寝具は布団七千四百四十枚、枕三百八十個、食器類は飯碗八千六十人前、汁椀五千二百十人前、膳千四十人前、 皿二千百十人前、通り盆五百三十五枚が用意され、当然助郷だけでは間に合わず、足腰の立つ者は全て出役させられた。

『 水戸天狗党勢軌跡 』
太田の渡しでは無事渡河に成功する。太田宿には尾張藩の陣屋があり、事前に代官高田意六と協議し、その約定により「不戦の意」を示す、槍の穂先に白紙を巻いて太田宿に入った。 総大将武田耕雲斎以下幹部達は福田本陣にて宴の餐と太田宿より軍資金として8百両の提供を受けた。 武田はこれに感謝し福田家に兜を贈った。一行は次宿の鵜沼に宿営した。

 国道21号線(中山道)に出てからは日影も無く、強い日射しの中、汗をかきかき歩いた美濃路の旅であった。

細久手宿を6時50分に出発して美濃太田駅前のホテルに15時45分に到着。所要時間8時間55分(休憩時間60分)、実歩行時間7時間10分、実歩行距離24.6km、歩速約3.43km/時である。



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