山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《20日目》 2017年10月31日
鵜沼宿 ~(各務ヶ原)~ 加納宿 ~ 河渡宿
 
道中行程
行 程 名鉄鵜沼宿駅 → 鵜沼宿 → 各務ヶ原 → 加納宿河渡宿 → 穂積駅 = 岐阜駅(泊)
距離・時間 26.6km / 7時間50分

 台風も過ぎ去り、「木枯らし一番」秋もぐっと深まった中山道。今日は鵜沼宿から加納宿をへて河渡宿までの西美濃の旅である。


 品川始発の新幹線で名古屋に名鉄で鵜沼宿駅に到着。風があり多少寒いが良い天気である。

《 鵜沼宿から各務ヶ原への道 》

 鵜沼宿駅から前回の終着点である鵜沼宿京(西)口に出て、中山道の旅の続ける。旧道を「西見付跡」「衣装塚古墳」「津島神社」を通り国道21号線(中山道)に合流する。ここからは暫く国道を歩くことになる。 国道を少し脇にそれ「山の前の一里塚」通り、高山本線の跨線橋を渡る。再び交通量の多い国道を3キロほど歩き、三柿町信号を国道と分かれ右に各務ヶ原市街へと入って行く。

『西見付跡』は、鵜沼宿の西木戸跡、鵜沼宿京口。
『衣装塚古墳』は、「県指定史跡」円墳として岐阜県最大の古墳(直径52m)。
『津島神社』は、村芝居が上演された皆楽座は回り舞台になっている。
『山の前の一里塚跡』は、播隆上人碑がある。碑は濃尾大地震で折れてしまった。この碑が山の前の一里塚跡、江戸日本橋より百二里目。
『神明神社』は、拝殿は伊勢湾台風で倒壊してしまった。

名鉄鵜沼駅
西見付跡(加納宿京口)
岐阜県最大の衣装塚古墳
津島神社
国道21号線各務原町信号付近

《 各務ヶ原から加納宿への道 》

 各務ヶ原市街をしばらく歩き、各務ヶ原市役所の前を通り各務ヶ原市民公園に出る。この公園は旧岐阜大学の敷地跡で英国風の広々としていて気持ちに良い公園である。
陽だまりのベンチで少し早い昼飯にする。
公園脇の那加川に架かる「那加川橋」を渡り加納駅前の道を行く、昔の名残が残る「新加納の一里塚跡・立場跡」を通り加納宿に向かう。
東海北陸自動車道を潜ると旧道らしく曲がりくねる道が続く、4キロほど歩き東海道本線ガードを潜ると加納宿は近い。
この道(各務ヶ原市~岐阜市)の南側は、航空自衛隊岐阜基地の滑走路と平行しており、戦闘機の離着陸訓練の騒音でうるさい。(昔は街道を行き交う旅人は静かな旅が出来たことだろう)

『各務ヶ原市民公園』は、旧岐阜大学の敷地跡、園内には古木が保存されている。
『新境川に架かる那加橋』は、戦国時代までは美濃、尾張の国境であった。両岸が各務ヶ原桜百選、歌舞伎役者市川百十朗が寄贈したもの。

『新加納の一里塚跡』は、街道を鍵型に屈曲させた立場で、茶屋の間に塚があった。標柱「新加納一里塚」がある、江戸日本橋より百四里目。拝殿は伊勢湾台風で倒壊してしまった。
『新加納立場跡』は、鵜沼から加納迄は四里十町(約17km)と長い為、新加納村に立場が設けられた。
『伊豆神社』は、街道沿いの祠内に「三面六臂馬頭観音」と祠前に道標「江戸ミチ 左京ミチ」ある。
『伊勢道追分』は、延命地蔵堂と明治九年(1876)建立の道標「左 伊勢名古屋ちかみち 右 西京 加納」がある。

各務ヶ原市民公園
新境川に架かる那加橋
新加納の一里塚跡
伊豆神社(切通付近)
伊勢道追分(領下付近)

《 六十九次之内五十三 加納宿 》

 名鉄茶所駅踏切と加納大橋を渡ると加納宿である。宿の入口付近は折れ曲がった迷いやす道(枡形の名残?)である。 「加納宿東番所跡」「専福寺」「加納城大手門跡」「加納宿本陣・脇本陣跡」などを加納宿の中心部を通る。 宿場の面影は少なく、静かな加納宿をあっさりと通り過ぎてしまう。

『加納宿』は、宿長は二十一半と長く、美濃十六宿中最大の宿場で、長良川の湊町そして城下町として栄え、熱田(名古屋)への御鮨街道追分を控え大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は八百五軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒で宿内人口は二千七百二十八人で尾張藩領宿高五百五十五石であった。

加納宿(渓斎英泉画)
加納宿 [拡大表示]

『専福寺』は、信長や秀吉の朱印状をのこしている。
『加納城大手門跡』は、加納藩(譜代三万二千石)の居城の大手門跡。宿場町と城下町の接点に門があった。南に三の丸跡。
『脇本陣跡』は、延亨二年(1745)より森孫作が勤めた。往来の松の絵・漢詩・和歌を所蔵。庭は朝鮮式石燈籠が残る。
『二文字屋』は、元和六年(1620)創業の旧旅籠二文字屋跡(現鰻屋)、左甚五郎作「月夜に河原で餅をつくウサギ」の欄間がある。また、本陣に泊った和宮の本膳を再現、求めに応じている。
『加納天満宮』は、加納城の守護神。名産の加納傘は加納城主となった松平丹波守が播州明石から連れてきた傘職人が始まりという。

加納宿東番所跡
加納宿の佇まい
加納城大手門跡
旧旅籠 二文字屋
加納天満宮

『 皇女和宮降嫁日程 』
十月二十六日(六日目)加納宿松波本陣に宿泊する、夕食の本膳は一汁四采、膾、汁、香之物、平(牡丹海老、生湯葉、百合根、葉山椒)、焼物(生鰤の付焼)、それに飯であった。 翌日の朝食は一汁四采、坪(生いか、小芋、きくらげ、藻ずく)、汁、香之物、平(半平、水菜、椎茸)、焼物(かけ醤油の小鯛)、それに飯であった。

《 加納宿から河渡宿への道 》

 加納宿をあっさりと過ぎ、東海道本線ガードを潜り長良川に向かう。途中、コンビニに立ち寄りアメリカンドックを食べ一休みする。
一息ついたところで旧道を先に急ぐ、「多羅野八幡神社」、湊村(鏡島)付近を通り長良川の「鏡島湊跡」にでる。そこから長良川の土手に登り、土手道を歩き長良川に架かる河渡橋を渡り河渡宿側にでる。
長良川の土手道からは「金華山・岐阜城」が遠望できる。 河渡橋を渡り土手道に一旦下り、暫く土手道を歩く、「小祠」のところから土手を下り河渡宿に向かう。

『多羅野八幡神社』は、天満神社、秋葉神社が祀られている。多羅野(だらり)は名物「だらり餅(あんころ餅)」が評判の立場があった。
『長良川』は、往時は長柄川といった。大日ヶ岳を源を発し、伊勢湾に注ぐ。
『金華山 岐阜城』は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城であった。永禄十年(1567)八月、織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地とした。
天守閣は、金華山(稲葉山)(標高329m)にあり、眼下に鵜飼で有名な長良川が市内を貫流し、東には恵那山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、北には乗鞍、日本アルプス。西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃尾平野が豊かに開け、木曽の流れが伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめられる。
『河渡の渡し』は、渡しの権利は河渡宿にあり、二艘の渡し舟が常備されていた。渡し賃は一人六文、荷が一八文、武士は無賃であった。
『馬頭観音堂』は、長良川河畔に建てられ、船待ちの休息所となっていた。

多羅野八幡神社
長良川の土手道
長良川の土手より「金華山 岐阜城」を遠望
岐阜城を遠望 [拡大表示]
長良川に架かる河渡橋
長良川の土手道( 河渡宿側)

《 六十九次之内五十四 河渡宿 》

 「河渡宿燈籠」を右に曲がると「河渡宿燈籠」である。「河渡の一里塚跡・松下神社」ぐらいで宿場の面影は殆ど無い。

『河渡宿』(ごうど)は、長良川西岸の舟着場で、米、塩、木材の物資集積地として栄えはが、川止め以外は通過の旅人が多く鄙びた宿であったともいう。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は六十四軒、うち本陣一、問屋二、庄屋、旅籠二十四軒で宿内人口は二百七十二人であった。

長良川の鵜飼(渓斎英泉画)
長良川の鵜飼 [拡大表示]

『河渡の一里塚跡』は、「中山道河渡宿碑」の側面に「一里塚跡」刻まれている。江戸日本橋より百七里目。
『松下神社』は、文化十二年(1815)河渡宿は未曽有の洪水に見舞われ、時の代官松下内匠は幕府の助成を得て、宿場全体を五尺余り(約1.5m)地上げした。宿人はこれに感謝して神社と顕彰碑を建立した。
『天王川』は、旧柚木川、徒歩渡しであった。岐阜市と瑞浪市の境。

河渡宿の入口
松下神社・河渡の一里塚跡
静かな河渡宿の佇まい
河渡宿の碑
河渡宿外れ天王川

『 水戸天狗党勢軌跡 』
 元治元年(1864)十一月三十日早朝鵜沼宿に宿営した天狗勢に加納藩の使いが来た、このまま一行が進軍すれば加納藩(譜代三万二千石)城下町加納宿に至る、戦いになれば宿場は兵火に晒され民は途端の苦しみを味わうことになる、 ついては間道への迂回を所望し、軍資金三千両を進呈するとの口上であった、武田耕雲斎は了承した。 この先中山道の河渡川(長良川)の河渡宿付近には大垣藩(十万石)、彦根藩(譜代二十万石)、桑名藩(十一万石)が遊撃態勢をとっていた。

 加納藩との約定通り、新加納の辺りから中山道を離れ間道に入った。これ以降は京への道を模索する彷徨の行軍となる。一行に残された道は越前若狭を経て京に至る経路しかなかった。 厳冬の峠道を凍死者を出しながら越え、村々は焼き払われ食料は尽き、深い積雪と加賀藩に行く手を阻まれた。 ここで一橋慶喜が天狗勢の追討総督に任じられたことを知り、「公には弓引けぬ」と十二月十七日加賀藩に降伏した。
幕府追討総督に引き渡され、過酷な取り調べで二十四人が獄死、翌年慶応元年(1865)二月武田耕雲斎以下三百五十二名が斬首となった。 武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎の首は塩漬けにされ中山道を通って水戸に戻り晒された。

 河渡宿を早々に通り抜け天王川を渡り、生津の信号を左折して県道23号を南に2キロ程歩き、東海道本線穂積駅に辿り着く。朝、吹いていた風も止み、(戦闘機の騒音以外)快適な秋の旅を楽しむことが出来た。

鵜沼宿駅を8時30分に出発して穂積駅に16時20分に到着。所要時間7時間50分(休憩時間40分)、実歩行時間7時間10分、実歩行距離26.6km、歩速約3.7km/時である。



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