山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《25日目》 2018年4月4日
武佐宿 ~ 守山宿 ~ 草津宿
 
道中行程
行 程 近江八幡駅 = 武佐駅 → 武佐宿守山宿草津宿 → 草津駅 = 米原駅
距離・時間 21.3km / 6時間10分

 今日は武佐宿から中山道の起点草津宿までの桜散る街道の旅である。

 近江八幡から近江電鉄「ガチャコン電車」で武佐駅に降り立つ、今日も天気は上々暑くなりそう。


《 武佐宿から横瀬川への道 》

 武佐宿から守山宿まで16キロの長丁場である。武佐駅から武佐踏切を渡り、旧道を大きな木のある「伊庭貞剛邸跡」を通り、国道8号線に合流する。
6枚橋で一旦旧道に入り、馬淵町信号「八幡神社」で国道を横断し再び旧道を歩く。 途中、真っ直ぐな道を通り「旧東横関村」へ、日野川の土手を登り「横関川渡し跡」に出る。桜咲く日野川の土手を歩き国道8号線に合流「横関橋」を渡る。

『伊庭貞剛邸跡』は、尊皇攘夷に奔走し、後に住友財閥に入社し、手腕を振るい住友家中興の祖といわれた。
『六枚橋』は、寛永二十年(1643)ここの流れに六枚の板橋が架けられた。
『八幡神社・高札場跡』は、源義家が奥州遠征の途次、愛馬が熱病を患い、この地で水を飲ませるとたちまち平癒したので応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願した。 参道口に真淵村の高札場があった。
『旧東横関村』は、立場で「横関川渡し」を控え賑わった、室町時代にはこの辺りに関所があり、これが地名の由来になっている。
『日野川に架かる横関橋』は、日野川(旧横関川)鈴鹿山脈の綿向山に源を発し、近江八幡と野洲の境を流れ、流末は琵琶湖の注いでいる。

武佐宿西端の武佐駅
六枚橋題目碑
八幡神社・高札場跡
真直すぐな道 旧東横関村付近
横関川渡し場跡
日野川に架かる横関橋

《 鏡宿から守山宿への道 》

 「横関橋」を渡り、国道を暫く歩き再び旧道(鏡宿)に入り、また国道に戻る。この辺りは東山道時代の宿駅があった所で「源義経」伝説が多く残る地でもある。
「鏡宿道の駅」「平宗盛清盛親子胴塚」を過ぎ、善光寺川に架かる橋を渡り左手に「東池」「篠原堤(西池)」を行く。

小堤信号で国道と別れに右の旧道に入り、旧辻村の「子安地蔵堂」等を通り新幹線沿いに歩く。 新幹線ガードを潜り野洲の市街地に入り野洲小学校脇の「中山道野洲碑」に沿って右に進み、途中東海道本線ガード潜り野洲川に向う。

『鏡 宿』は、旧鏡村は中世東山道時代の宿駅であった、江戸時代になると武佐宿と守山宿が三里半と長い為、間の宿として賑わい鏡宿と呼ばれた。
『鏡宿本陣跡』は、紀州候の定宿であり、皇女和宮もここで休息した。
『義経宿泊の館跡碑』は、東山道時代の駅長の沢弥伝の館。
『鏡神社』は、承安四年(1174)三月三日鏡の宿で元服した義経は、参道口の松の枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、源氏の復興と武運長久を祈願した。
『平宗盛清盛親子胴塚』は、壇ノ浦の合戦に敗れ、捕えられの身となった親子はここで斬首。首級は京に送られ、胴は一緒に葬られた「平家終焉の地」。
『旧辻村付近』は、この地が野洲郡から甲賀郡に出る辻であったところに由来する。
『子安地蔵堂』は、極彩色等身大の地蔵菩薩像で平安時代末期(十二世紀)の造立、安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰が篤い。
『稲荷神社』は、壬申の乱野洲河原の戦死者を供養する福林寺の守護神として天暦二年(948)伏見稲荷大明神を勧請したもの。
『野洲川』は、鈴鹿山脈の御在所山に源を発し流末は琵琶湖に注ぐ、その昔河口に八つの洲があったので八洲川と呼ばれ、これが転じて野洲川と呼ばれるようになった。 通常は仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使通行の際は仮土橋を架けた。

鏡宿付近
鏡宿本陣跡
鏡神社(烏帽子掛けの松)
国道沿いの溜池(東池)
国道沿いの篠原堤(西池)
子安地蔵堂
旧辻村付近 [拡大表示]
稲荷神社鳥居
野洲川橋を渡れは守山宿

《 六十九次之内六十七 守山宿 》

 野洲川橋を渡ると、ようやく「守山宿」である。守山宿の市街地化の為か?宿場の面影は少ない。
「帆足観音・慈眼寺」、琵琶湖木浜湊への分岐点「錦織寺道道標」「東門院」「旧旅籠堅田屋」などを見る。
宿場の案内所で一休み、お茶を御馳走になり「守山宿」を後にする。

『守山宿』は、比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために東門院が建立され「比叡山を守る寺」から守山寺と名付けられ、守山の語源となった。 守山宿は京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で「京立ち守山泊まり」といわれ賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内四百十五家数四百十五軒、うち本陣二、脇本陣一、旅籠三十軒で宿内人口は千七百人で宮津藩領であった。

守山宿(歌川広重画)
守山宿 [拡大表示]

『帆足観音・慈眼寺』は、本尊は唐から帰途、最澄を大時化から救った帆柱観音。
『錦織寺道道標』は、右中山道、左琵琶湖木浜湊への道。
『東門院』は、不動明王坐像や石造五重塔は国重要文化財、朝鮮通信使の宿舎になった。
『旧旅籠堅田屋』は、現門前茶屋かたた屋。

守山宿入口付近
帆足観音・慈眼寺
守山宿本陣跡
錦織寺道道標
守山宿東門院
守山宿旧旅籠堅田屋

《 守山宿から草津宿への道 》

 守山宿から草津宿まで5.4キロの行程である。「守山宿を出て旧道(県道2号大津能登川長浜線)を草津宿に向かう。
途中、「今宿の一里塚」「大宝神社」「栗東駅西口」を通り、栗東市と草津市の境を流れる西渋川を渡り、左に東海道本線の低いトンネルを抜け(この辺の道は判り難い)草津宿に出る。

『今宿の一里塚』は、滋賀県内で現存する唯一の一里塚(南塚)。塚木の榎は二代目、江戸日本橋より百二十八里目。
『大宝神社』は、大宝年間(701~4)の創建でこの地の産土神。
『芭蕉句碑』は、大宝公園内に「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」綣村(へそむら)の立場で詠んだ句。

今宿町付近
滋賀県内唯一の今宿の一里塚
綣 村(へそむら)付近
綣 村の大宝神社
栗東駅西口交差点

《 六十九次之内六十八 草津宿 》

 トンネルを抜け東海道本線と並行した旧道を行き「伊砂砂神社」に出る、この辺りから宿場が始まる?
草津駅前の繁華街「きたなかアーケード」通り、草津川隧道(天井川の下)を潜ると東海道と中山道の追分「草津宿追分道標」である。
追分の先「草津宿本陣跡」「草津宿脇本陣跡」がある。綺麗に整備された町並であるが「草津宿本陣跡」を除いては昔の面影はない。

『草津宿』は、東海道との分岐点であり、琵琶湖舟運の矢橋湊へ至る矢橋街道との分岐点にあたり、交通の要衝の地として繁栄した。正徳二年(1712)には物資の動向を監視する貫目改所が設置された。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は五百八十六軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒で宿内人口は二千三百五十一人であった。

草津宿(歌川広重画)
草津宿 [拡大表示]

『伊砂砂神社』は、平安の昔に疫病平癒の為に大将軍を祀り、渋川大将軍社と呼び渋川の産土神であった、明治2年祀っている三神の頭文字をとって「いささ神社」と改めた。
『草津宿追分道標』は、文化十三年(1816)建立の火袋付石造追分道標「右東海道いせみち」「左中山道美のぢ」がある、ここが中山道の起点。
『草津宿本陣跡』は、田中七左衛門本陣。遺構を残している(国指定史跡)。
『草津宿脇本陣』は、脇本陣藤屋与左衛門(現吉川芳樹園店舗)。

草津宿伊砂砂神社
草津宿の繁華街
草津宿追分道標 「右東海道いせみち」「左中山道美のぢ」
草津宿追分道標 [拡大表示]
草津宿本陣跡と宿並
草津宿本陣跡 [拡大表示]
草津宿脇本陣
草津宿の宿並

 初夏を思わせる日差しの中、桜散る街道の旅。中山道の起点(終点)である「草津宿」にやっとこさっとこ到着。 残すところ、我輩の終着点である「京三条」まであと二日の行程である。(もう一息だぁ~)

武佐駅を7時30分に出発して草津駅に13時40分に到着。所要時間6時間10分(休憩時間40分)、実歩行時間5時間30分、実歩行距離21.3km、歩速約3.9km/時である。



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