山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《26日目》 2018年5月10日
草津宿 ~(瀬田の唐橋)~ 大津宿
 
道中行程
行 程 米原駅 = 草津駅 → 草津宿 →(瀬田の唐橋)→ 膳所城 → 大津宿(泊)
距離・時間 17.6km / 6時間20分

 今日は草津宿から瀬田の唐橋を渡り大津宿まで南近江の旅である。

風薫る五月だと言うのに草津宿は肌寒い薄曇りの天気である。元気を出して東海道の旅を始める。


《 草津宿から野路へ 》

 草津宿「追分道標」で中山道と別れ、「草津宿本陣跡」、太田道灌所縁の「太田酒造」、草津宿京口の「立木神社」を通り東海道を西に向かう。 立木橋を渡り「矢橋道標」を通り、国道1号線に合流する。

『追分道標』は、文化十三年(1816)建立の火袋付石造追分道標「右東海道いせみち」「左中山道美のぢ」がある、ここが中山道の起点。
『太田酒造』は、銘酒「道灌」の蔵元。太田道灌の遠祖。代々問屋場の総取締役を勤め、政所と呼ばれた。
『立木神社』は、矢倉の産土神。境内に樹齢四百年のウラジロガシ、旧追分道標や鹿の狛犬がある。
『矢橋道標』は、矢橋湊(琵琶湖)から大津への舟運があった。「瀬田へ廻ろか矢橋へ出よか ここが思案の婆が餅」、「武士の やばせの舟は早くとも いそがば廻れ 瀬田のからはし」と詠われた。

追分道標 「左中山道・右東海道」
草津宿 本陣跡
草津宿 太田酒造
草津宿 立木神社
矢橋道標

《 野路から大江へ 》

 国道1号線「矢倉南の信号」を渡り、再び旧道に入る。旧道を「野路一里塚跡」「萩の玉川跡」と通り、「弁天池(浄財弁天参道)」でる。
「弁天池」を過ぎ狼川橋を渡ると月輪村である。「月輪池の一里塚跡」経て大江村から瀬田に向かう。

『野路一里塚跡』は、廃道となった街道に上北池公園ができ、一里塚を復元した。日本橋より百十九里目。
『野路の玉川跡』は、伏流水が湧く名泉があり、源俊頼の歌以降は「萩の玉川」の名所となった。
『弁天池』は、琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天を祀っている。社に(大泥棒)日本左衛門が隠れたという。
『月輪池の一里塚跡』は、月輪池の一里塚。日本橋より百二十里目。

野路一里塚跡
野路の玉川跡「萩の玉川」
弁天池(浄財弁天)
月輪池の一里塚跡
大江付近の旧東海道

《 瀬田付近 》

 瀬田の手前で左手にある、近江一宮「建部神社」を参拝してから「瀬田の唐橋」に出る。周辺を暫く散策する。

『建部神社』は、近江一宮。日本武尊の死を悼んで、父景行天皇が祀る。建部氏がこの地に遷座させた。源頼朝が伊豆に流される途次、当社に立ち寄り源氏再興の祈願をしたところ、願いが叶ったことから、武運の神として多くの信仰を集めた。

『瀬田唐橋』は、唐風の古風な擬宝珠。最初に架けられたのは定かではないが日本書紀にも登場してくる。
昔から、「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、何度も戦乱の舞台となってきた。 現在のように大橋・小橋の形になったのは、織田信長が架け替えてからといわれている。この橋は宇治橋・山崎橋とともに、天下三名橋のひとつ。

近江一宮 建部神社
近江一宮 建部神社 拝殿と三本杉
近江一宮 建部神社 [拡大表示]
瀬田の唐橋
瀬田川と「瀬田の唐橋」
瀬田の唐橋 [拡大表示]
瀬田川と「瀬田の唐橋」
唐風の擬宝珠 [拡大表示]
鳥居川の交差点
松原の踏切

《 唐橋から膳所へ 》

 「瀬田の唐橋」の周辺を散策したのち唐橋を渡り、石山商店街を通り、晴嵐から膳所に向かう。途中石山駅付近の割烹料理店で天ぷら定食を食べる(今回の旅で真面な昼飯を食べたのはこれで3回目である)。
真面な昼飯を食べ、東海道本線ガードを潜り晴嵐松(ROHmの工場の横を通る)に出る。
ここで横道に逸れ琵琶湖畔(大津湖なぎさ公園)から近江大橋を遠望する。
再び、旧道に戻り膳所に向かう。膳所城の枡形を経て「若宮八幡神社」「和田神社」「響忍寺」を通り、膳所城下を抜け、大津宿に向かう。

『膳所城』は、琵琶湖に突き出した水城。家康は西国に備え瀬田の唐橋を守備する為に膳所城を築いた。藤堂高虎が縄張りを行い、歴代の譜代大名が城主となった。
『粟津ヶ原の晴嵐松』は、木曽義仲が討死にした粟津ヶ原の松原。近江八景のひとつ。
『近江大橋』は、滋賀県大津市丸の内町と同県草津市新浜町を結ぶ琵琶湖上の道路橋である。
『若宮八幡神社』は、表門は、膳所城の犬走り門を移築したもの。
『軒下のばったん床几』は、街道に面した軒下に折りたたみの縁側を持つ民家が9軒点在する。
『和田神社』は、白鳳四年(657)の創建。本殿は、国の重要文化財。御神木の銀杏は樹齢六五〇年。関ヶ原の合戦の後、捕らわれた石田三成は京に護送される途中、この木に繋がれた。
『響忍寺』は、本膳所藩家老の村松屋敷跡。膳所六門のひとつ。

ROHm大津工場(元NECの工場)
琵琶湖に架かる近江大橋 (大津湖なぎさ公園より)
大津湖なぎさ公園 [拡大表示]
膳所 若宮八幡神社
膳所 軒下のばったん床几
膳所 和田神社
膳所 石座神社

《 六十九次之内六十九 大津宿 》

 膳所を通り粟津ヶ原を抜け大津宿へ。大津宿の手前で木曽義仲と松尾芭蕉の墓がある「義仲寺」に立ち寄る。「義仲寺」はこじんまりした小さな寺である。
大津宿は宿場としての面影は無い。「大津事件」で知られる「露国皇太子遭難之地碑」を通り、西近江路の札の辻「大津宿本陣跡」を経て、大津駅前のホテルに向かう。
『義仲寺』(ぎちゅうじ)は、このあたり、古くは粟津ヶ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。境内には義仲墓、松尾芭蕉墓、巴塚がある。 治承四年(1180)、義仲は信濃に平家討伐の挙兵し、寿永二年五月(1183)、北陸路に平家の大軍を破り、翌寿永三年正月、源頼朝の命を受けて都に上ってきた範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討死した。享年三十一歳。
また、松尾芭蕉が当所を数回訪れている。芭蕉は元禄七年(1694)、大坂で客死、享年五十一歳。遺言により門人ら手により遺骸を義仲寺に葬られた。

       「 木曽殿と 背中合わせの 寒さかな 」 芭 蕉

『大津宿』は、琵琶湖舟運の要衝であり、東海道、北国街道の陸運と多くの物資が集散し、近江商人活躍の町として栄えた。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は五百八十六軒、うち本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒で宿内人口は二千三百五十一人であった。

大津宿(歌川広重画)
大津宿 [拡大表示]

『露国皇太子遭難之地碑』は、明治24年に、来日したロシア皇太子のニコライが大津を遊覧していた際に、警備をしていた巡査津田三蔵に斬りつけられた「大津事件」の現場。 大国ロシアに恐怖を抱いた明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう大審院長の児島惟謙に迫ったが、児島は司法権の独立を貫き、刑法どおり無期徒刑とした。事件現場には碑が建っている。 日露戦争の13年前。
『大津宿本陣跡』は、大塚嘉右衛門本陣跡。明治天皇聖跡碑がある。

JR膳所駅付近の街並
木曽義仲と芭蕉が仲良く眠る境内
義仲寺 [拡大表示]
義仲寺 義仲公墓

『 皇女和宮降嫁日程 』
 幕末、ペリー来航により開国への外圧は徳川幕府の権威をゆるがせ「尊皇攘夷」の嵐は幕府の威光を失墜させた。 幕府は朝廷との融和を図るべく「公武一和(公武合体)」を打ち出し、前例の無い第十四代将軍徳川家茂と孝明天皇の皇女和宮(異母兄妹)の婚礼に固執し、朝廷は「攘夷実行」を条件に実現の運びとなった。
道中は中山道とした、それに先立ち和宮の諸道具は中山道垂井から美濃路を経て鳴海に出て、以降は東海道で江戸に運ばれた。
 文久元年(1861)十月三日和宮は祇園社(八坂神社)へ詣で道中安全祈願「首途の儀」を執り行い、十月二十日辰刻(午前八時)桂宮邸を出立した。
列は朝廷方数千人、幕府方一万五千人の大通行であった。行列は前々日、前日、当日、翌日に分かれ、人馬継立は一日平均二万五千人、七百五十疋であった。

滋賀県庁
露国皇太子遭難之地碑
大津宿本陣跡

 朝の内は寒かったが、日差しも出てきて歩きやすい旅日和。中山道の旅もそろそろ終わり、ゆっくりと旅を楽しんだ一日であった。

草津駅を9時00分に出発して大津駅に15時10分に到着。所要時間6時間10分(休憩時間50分)、実歩行時間5時間20分、実歩行距離17.6km、歩速約3.3km/時である。



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