山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《6日目》2015年10月19日
(碓氷関所跡)~ 坂本宿 ~(旧碓氷峠)~ 軽井沢宿
 ~ 沓掛宿
道中行程
行 程 横川駅 →(碓氷関所跡)→ 坂本宿 →(旧碓氷峠)→ 軽井沢宿
沓掛宿 → 中軽井沢駅
距離・時間 18.0km / 6時間50分

 今日は上州路坂本宿から難所『碓氷峠』を越えて信濃路軽井沢宿を経て沓掛宿までの旅である。

 快晴の肌寒く感じる朝、横川駅に降り立つ。駅前の街道(18号線)を西に向かう、右手少し高い所に 碓氷関所跡 がある。


 関所を後にして横川に架かる霧積橋を渡り右手の薬師坂を登る。坂を登り切ると18号線(中山道)に合流、上信越自動車道の下を潜ると坂本宿である。

『碓氷関所跡』は、慶長十九年(1614) 仮番所が置かれ、元和八年(1622)番所となり、翌年家光上洛に際し関所となった。 安中藩が管轄し、東海道箱根関所と同格「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。

『アブト式による横川と軽井沢間の鉄道開通』は、古くから交通の要衝として知られてきた碓氷峠。太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝であり、 その碓氷峠に鉄道を敷設する計画が持ち上がったのは、明治時代初めのことである。当初は、東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルートのひとつとして検討されたが、難工事が予想されることから断念された。
しかし、明治20年代に入ると、再度鉄道を引く計画が持ち上がる。スイッチバック式やループ線などを設ける案も検討されたが地形的に対処できず、 ドイツのハルツ山鉄道を参考にアプト式を取り入れることで難題をクリアした。そして明治26年、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、悲願の横川―軽井沢間が開通した。

『アプト式鉄道』とは、スイス人のアプト(R. Abt1850~1933)が考案した急坂用の歯車式鉄道。機関車に歯車を取り付け,これと軌道に設置した滑り止めの歯とをかみ合わせるようにしたもの。

横川駅と「おぎのや」
碓氷関所跡
碓氷関所跡 [拡大表示]
アプト式信越本線跡
アプト式信越本線跡 [拡大表示]

《 六十九次之内十七 坂本宿 》

 坂本宿は幅広い街道のせいか宿場の面影が感じられない。真っ直ぐ伸びる街道の向こうに、これから登る 刎石山(結構大変そう!)が望まれる。

『坂本宿』は、碓氷の麓であるところから「坂本」となる。坂本宿は上州路最後の宿。江戸からか概ね五泊目にあたり、東に碓氷の関所、西に難所碓氷峠を控え大いに賑わった、 宿並の完成は寛政二年(1625)と後発であった為、整然としている、坂本宿は飯盛も多く「碓氷峠で坂本見れば女郎が化粧して客を待つ」とうたわれた。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数七百三十二軒、うち本陣二、脇本陣二、旅館四十軒で宿内人口は七百三十二人であった。

坂本宿 (渓斎英泉画)
坂本宿 [拡大表示]

『佐藤本陣跡』は、代々佐藤甚左衛門が勤め、金井本陣と共に問屋を兼ね、「上の本陣」と呼ばれた。また、坂本小学校発祥の地でもある。
『旅館かぎや』は、祖先が高崎藩納戸役鍵番であった。
『坂本宿と刎石山』は、浮世絵師「英泉」は坂本宿として背景に特徴的な刎石山(はねいしやま)と手前に宿並を俯瞰して描かれている。

坂本宿より、これから登る刎石山
坂本宿より刎石山 [拡大表示]
坂本宿佐藤本陣跡
元旅館かぎや

《 刎石山~碓氷峠 》
 坂本宿を過ぎると貯水タンクが現れる、ここで18号線と別れ左手の細い道に入り。少し行ってから右手の急な坂道を登り、再び18号線と合流する。
ここから、いよいよ旧中山道である。急な山道をひたすら1時間ほど登ると奇岩(柱状節理)や仏石石塔群が現れ、坂本宿を一望できる「覗(のぞき)」呼ばれる所に出る。 この辺りから山道も大分楽になり、尾根道を行くことになる。

『柱状節理』とは、火成岩が冷却、団結する際に柱状に割れを生じたもの。
『覗(のぞき)』からは、坂本宿が見下ろせる、小林一茶はここで『坂本や袂の下のゆうひばり』と詠んでいる。

中山道(国道18号)
柱状節理
覗(坂本宿を見下ろす)
覗(坂本宿を見下ろす)[拡大]

 昔は山賊、今は熊が出そうな尾根筋の道を「昔の旅人や皇女和宮降嫁の旅の苦労など思いながら」 途中、「刎石茶屋跡、碓氷坂関所跡、南向き馬頭観音、栗が原、陣馬が原分岐、長坂(この坂はキツかった)」などを通り2時間半ほど掛けて碓氷峠にたどり着く。
碓氷峠は茶店が数件あり、車で来ている観光客などで下界に降りてきた感がある。熊野神社に参拝して旅の無事を祈願し、再び車道をはなれ草深い旧道を軽井沢宿まで歩くことにする。
悪路(途中2ヵ所ほどザイルを頼りに降る)旧中山道を下り別荘地の出ると、軽井沢宿はすぐそこである。

『碓氷坂関所跡』は、昌秦二年(899)関所が設置された、中北道標「←坂本宿2.5km 熊野神社6.4km→」がある。 近くには東屋がある。
『南向き馬頭観音』は、寛政三年(1791)の建立、この辺りには山賊が出没したという。

『碓氷峠』は、標高1180m江戸より初の峠で頂上は上野(群馬県)と信濃(長野県)の国境。 この峠は中央分水嶺にあたり、雨水は日本海側と太平洋側に分かれる。峠名は一旦霧がかかると日が差さない「薄日」が碓氷に転化したものである。
頂上の村は熊野神社の門前町として開け、今でも「峠の力餅」商う茶店がある。
『熊野神社』は、新宮は上州側、本宮は信州側に建っている。「安政遠足」の終着地点でもある。

碓氷坂関所跡
碓氷峠付近の山道(旧中山道)
碓氷峠頂上 熊野神社
碓氷峠 熊野神社 [拡大表示]

《 六十九次之内十八 軽井沢宿 》

 泥まみれの登山靴を履いた「ヨレヨレの爺さん」にとっては、観光客で賑わう軽井沢は何とも似つかわしくない所である!!

『軽井沢宿』は、難所碓氷峠を控え大いに賑わった。天明三年(1783)浅間山の大噴火による降灰は四尺余りに及び宿は壊滅的な被害を蒙っている。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数百十九軒、うち本陣一、脇本陣四、旅館二十一軒で宿内人口は四百五十一人であった。

軽井沢宿 (歌川広重画)
軽井沢宿 [拡大表示]

『ショーハウス』は、英国人宣教師アエキサンダー・クロフト・ショー氏の記念碑、胸像、礼拝堂があり、避暑地としての軽井沢を広く紹介した。
『つるや旅館』は、往時は強飯、ざるそば、煮しめを商った、茶屋の前は東の升形。明治以降は旅館となり芥川龍之介、堀辰雄等の文人が多く宿泊した。

軽井沢ショーハウス
軽井沢宿道標
軽井沢宿
軽井沢宿 [拡大表示]

『 浅間山天明の大噴火 』

 天明3年7月8日(1783)大噴火。4月9日に活動を再開した浅間山は、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。
6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した。
7月6日から3日間に渡る噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向に吾妻火砕流が発生。続いて、山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。 これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。
高速化した巨大な流れは、山麓をえぐり取りながら流下。鎌原村と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムが形成された。 天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら利根川へと流れ込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。
このときの犠牲者は1624人、流失家屋 1151戸、焼失家屋 51戸、倒壊家屋130戸余りであった。 最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明3年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている。

 早々に軽井沢を離れ、旧中山道を沓掛宿へと向かう。ロータリ式交差点の六本辻を通り、市村記念館(近衛文麿の別荘跡)を経て沓掛宿に入る。 途中、しなの鉄道越しに雄大な浅間山を眺めることができた。


《 六十九次之内十九 沓掛宿 》

 宿の東側に中山道沓掛宿碑があり、ここから沓掛宿である。昔の面影は残っていない。駅前の蕎麦屋で手打ち蕎麦を食べ、しなの鉄道中軽井沢駅より帰途に就く。

『沓掛宿』は、安永二年(1773)の大火で壊滅的な被害を受け、現在位置に移転した。小宿ではあったが草津温泉を控え湯治客で賑わった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数百六十六軒、うち本陣一、脇本陣三、旅館十七軒で宿内人口は五百二人であった。

沓掛宿 (歌川広重画)
沓掛宿 [拡大表示]

『沓掛時次郎』:沓掛宿の入口、長倉神社に長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」に因む歌碑「千両万両枉げない意地も人情溺めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」がある。

紅葉(沓掛宿の手前)
軽井沢 六本辻 [拡大表示]
浅間山と 「しなの鉄道」 (沓掛宿の手前にて)
浅間山を遠望 [拡大表示]
沓掛宿入口の道標
沓掛宿の宿並
しなの鉄道中軽井沢駅

 紅葉の見頃にはチョット早すぎたが、快晴の秋の信濃路、難所『碓氷峠』も無事に越え、軽井沢宿、沓掛宿までの旅であった!

信越線本線横川駅を8時40分に出発してしなの鉄道中軽井沢駅に15時30分に到着。所要時間6時間50分(休憩時間35分)、実歩行時間6時間15分、実歩行距離18.0km、歩速約2.88km/時である。



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