山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《2日目》2015年3月27日
大宮宿 ~(氷川神社)~ 上尾宿 ~ 桶川宿
~ 鴻巣宿
道中行程
行 程 大宮駅 → 大宮宿 →(氷川神社)→ 宮 原 → 上尾宿桶川宿 → 北 本 → 鴻巣宿 → 吹上駅
距離・時間 30.7km / 8時間15分

 天気は快晴、桜の咲くのを待ちきれず『山ねずみが歩く中山道』の第2日目である。


 通勤客で混雑する大宮駅から氷川神社を目指す。「二の鳥居」に出てケヤキ並木の参道(古中仙道 全長約2km)をしばらく行くと楼門に到る、 楼門を潜ると箒目の刷いた砂利がひきつめられた神域である。拝殿にて道中の安全を祈願する。楽しみにしていた桜はまだようである。

《 氷川神社 》
 社記によると今から凡そ二千有余年、第五代孝昭天皇の御代の創立と伝えられている。
祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として知られている。
日本武尊が東征の折に戦勝祈願をした古社。「武蔵国一之宮」で治承四年(1180)源頼朝が社殿を再興し、徳川家康は社参し神領300石寄進している。

ケヤキ並木の参道(古中山道)
氷川神社 二の鳥居 [拡大表示]
氷川神社 楼門
氷川神社 拝殿
氷川神社 舞殿 [拡大表示]

 氷川神社を後にして大宮駅前通に戻る。東北本線・東北新幹線のガードを潜り、東大成庚申塔の前を通り、17号線を横断して県道164号線(鴻巣桶川さいたま線)に入る。 鴻巣まで、この164号線を行くことになる。

『東大成庚申塔』は元禄十年建立の庚申塔がある。耳と目の病にご利益あり、お願いする時は団子を供えるという。
『加茂神社』は京の上加茂神社を勧請したもので、加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなった社である。 また加賀堀丹後守の妻女が産気づき、当社に祈願すると陣痛が治まり、国許で男子を出産したことから安産にご利益ありといわれている。

賀茂神社を過ぎ「新大宮バイパス高架」を潜り、県道164号線をしばらく歩くき陸橋を越えると上尾宿である。

東大成庚申塔
賀茂神社

《 六十九次之内五 上尾宿 》

『上尾宿』は、川越、岩城を控え、近郷の遊興地で飯盛旅籠が多かった、二と七の日に市が立ち、江戸日本橋を七つ立ちして旅人の一泊目にあたり大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は百八十二軒、うち本陣一、脇本陣三、問屋場一、旅籠四十一軒で宿内人口七百九十三人であった。

上尾宿 賀茂之社 (渓斎英泉画)
上尾宿 [拡大表示]

『氷川鍬神社』は寛永九年(1632)創建で上尾宿発祥の地であり、総鎮守である。 鍬祭りとして鍬を祀ったのが由来というこの社は、小さな鍬2丁を神体とし、五穀を司る農業神を祭神とする。 「鍬大神宮」「御鍬大明神」と称し、地元では「お鍬さま」の愛称で親しまれている。
『遍照院』の開山は室町時代の応永元年(1394)、日乗山秀善寺遍照院と号した。御本尊は大聖不動明王。 罪業が深く教化しがたい衆生(命ある全てのもの)を怒りの姿に化身して力ずくで救い、諸願を成就し、災害を除く仏として厚く信仰されている。

上尾駅前通り
上尾宿 氷川鍬神社
上尾駅前通り
上尾宿 遍照院の六地蔵
遍照院山門 [拡大表示]
上尾宿 中山道の碑

上尾宿を過ぎ164号線をひたすら北に進むと桶川宿である。

《 六十九次之内六 桶川宿 》

『桶川宿』は、日本橋から距離にして十里十四町(約40.8km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程。江戸方に一つ手前の上尾宿(十里十六町)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。
また、桶川宿は紅花の産地として繁盛し紅花は京に送られた、藍の栽培も盛んで「武州藍」と呼ばれ江戸に送られた。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は三百四十七軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠三十六軒で宿内人口千四百四十四人であった。

桶川宿 広原之景 (渓斎英泉画)
桶川宿 [拡大表示]

『桶川宿本陣跡』は上段の間、次の間、湯殿等を残している。加賀前田家の宿所で、門脇には明治天皇桶川行在所碑がある。

中山道 桶川宿碑
桶川宿本陣跡

《 北本宿 》

 江戸幕府による宿駅整備以前の慶長七年(1602)までは中山道の宿場「鴻巣宿」があったとが知られている。鴻巣宿までは未だ3km以上ある。
丁度、蕎麦屋があったので「ミニカツ丼ともりそば」セットで昼飯にする。

『多聞寺』は真言宗智山派で万治四年(1661)の創建で本尊は毘沙門天立像、境内には県指定天然記物のムクロジがある。

北本宿の碑

 昼飯の後、再び鴻巣宿を目指して歩き出す。県道164号線多聞寺の信号を左に入り、鴻巣宿の手前まで古中山道(江戸時代初期の中仙道)を高崎線の線路沿を行く。
途中、『馬室原の一里塚』が残っている、塚上には稲荷の小祠が祀られており、江戸日本橋より11里目である。

北本宿 多聞寺
馬室原の一里塚
高崎線沿いの『古中山道』
高崎線と古中山道 [拡大表示]

 古中山道を暫く行き、高崎線の踏切を渡り、再び県道164号線に出ると間もなく雛人形で有名な鴻巣宿である。

《 六十九次之内七 鴻巣宿 》

『鴻巣宿』は慶長七年(1602年)まで鴻巣宿は現在の北本市に位置していたが、江戸幕府の宿駅整備に伴い、それまでの鴻巣宿より北の、市宿新田に移設された。
これにより、それまでの鴻巣宿は「元の鴻巣」との意から「本鴻巣村」と表されるようになり、元の宿場であることから「本宿村」と表されるようになった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によると宿内家数は五百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠六十八軒で宿内人口二千二百七十四人であった。

鴻巣宿 吹上富士遠望 (渓斎英泉画)
鴻巣宿 [拡大表示]

『地 名「鴻巣」の由来について』 『地形「高台の砂地(洲)」から来ている説』と 『日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承』 等がある。
『鴻巣雛』は鴻巣宿周辺の村で農間期の農民が余技でこしらえる雛人形は、江戸中期に始まり、「鴻巣雛」の名で江戸周辺にも数多く出荷され、人気を博した。 これは天正年間(1573 ~ 1644)に京都伏見人形の人形師が移り住んだのが始まりとされており、やがて豪華な衣装で着飾った古代雛が作られるようになっていったものである。 そうして盛んになった鴻巣の雛市は、江戸の十間店、武州越ヶ谷とともに関東の三大雛市と称された。現在でも雛人形の製造問屋が軒を連ねている。

鴻巣雛人形広田屋
鴻巣宿 勝願寺
鴻巣宿 勝願寺 [拡大表示]
鴻巣宿 鴻神社

『勝願寺』は浄土宗関東七大寺の一つ、家康は深く帰依し葵の紋瓦を許している。墓所には関東郡代を勤めた伊奈忠次・忠治親子、千石久秀などの墓がある。
『鴻神社』は鴻巣宿の総鎮守、境内の大樹にコウノトリが巣を作り卵を産むと、大蛇が忍び寄り、コウノトリがこれを突き殺してしまった。 以来祟りがなくなり、社を「鴻(こう)の宮」と呼ぶようになった。
『氷川八幡神社』は別名綱八幡と呼ばれ渡辺綱を祀る箕田郷二十七ヶ村の鎮守。境内に宝暦九年(1759)建立の箕田碑がある。

 鴻巣宿の外れにある「加美」の中山道道標より旧中山道(県道365号線)を行く、吹上駅まで西日のあたる単調な長い道、だいぶ足も疲れてきているので結構キツイ。 何とか吹上駅に辿り着いたが付近は何も無い寂れた町である。

「加美」の中山道道標
氷川八幡神社
吹上駅近くの国道

 桜はまだ咲いていなかったが、天気も良く快適な『てくてく道中』であった。

大宮駅を7時15分に出発して吹上駅に16時に到着。所要時間8時間45分(休憩時間30分)、実歩行時間8時間15分、実歩行距離30.7km、歩速約3.72km/時である。



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