山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《12日目》2016年10月21日
(鳥居峠)~ 藪原宿 ~ 宮ノ越宿 ~(福島関所跡)
 ~ 福島宿
道中行程
行 程 民宿 →(鳥居峠)→ 藪原宿宮ノ越宿 →(福島関所跡)→ 福島宿 → 木曽福島駅
距離・時間 19.9km / 7時間30分

 今日は木曽路の難所「鳥居峠」を越えて福島宿までの旅である。


『 鳥居峠越え 』

 薄曇りの朝、民宿の裏手から鳥居峠の道「くるみ坂」を辿る。途中、石畳道を歩き、展望台(奈良井宿は見えなかった)に寄り、木の橋を渡り、古戦場葬沢(霊が彷徨ていそうな薄気味悪い所)、一里塚、水場のある休憩所を通り1時間ほどで旧国道と交差している鳥居峠に出る。
鳥居峠は林に囲まれて展望のきかないチト寂しげな峠である。北風が吹いて寒いのと熊が出そうなので「熊よけの鐘」を三度打き、早々に峠を下ることにする。峠の西側付近はトチの木が群生しており「天然記念物鳥居峠のトチノキ群碑」が建っいる。
途中、御嶽遥拝所の御嶽神社に寄ったが遥拝所らしき所が無く御嶽山を遥拝することができなかった。「義仲硯水」「芭蕉の句碑」通り九十九折の急坂を下ると藪原宿も近い。

鳥居峠の一里塚 は、江戸日本橋より六十五里目。
鳥居峠(標高1197m)は、木曽路最大の難所で、古代には県坂と呼ばれ美濃との国境。この峠は北東方向に流rれる奈良井川、南西方向に流れる木曽川の分水嶺である。
子産の栃 は、幹に大きな空洞をある栃。昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が育てて幸福になったことから。この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。
御嶽遥拝所 は、御嶽山(標高3063m)の遥拝所、木曽路で最初に御嶽山が見える所。社殿の脇には霊神石像が40基余り林立している。

鳥居峠への登り 木橋
鳥居峠の一里塚
鳥居峠への登り石畳道
鳥居峠頂上
鳥居峠 熊よけの鐘
御嶽遥拝所

《 六十九次之内三十五 藪原宿 》

 藪原宿の手前「尾張藩鷹匠役所跡」「飛騨街道追分」を通り中央本線のガードを潜る(後で分かった事、鷹匠役所跡付近の跨線橋を渡るのが正解で、この為本陣跡を見過ごしてしまった)と藪原宿である。ここも大火に遭っ為、往時の面影はない。

藪原宿 は、難所鳥居峠と飛騨街道追分を控え、名産「お六櫛」の生産地として賑わった。明治17年の大火で宿並の大半が焼失してしまった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は二百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十軒で宿内人口は千四百九十三人であった。

藪原宿(渓斎英泉画)
藪原宿 [拡大表示]

尾張藩鷹匠役所跡 は、標識がある。毎年春になると、巣山に入り鷹の雛を捕獲し、飼育調教した。
飛騨街道追分 は、野麦峠を越えて飛騨高山に至る。日本海の幸が運ばれた。
防火高塀跡 は、藪原宿は元禄八年(1608)の大火で全焼、その教訓から広小路を造り防火壁を設けた。
高札場跡 は、御判形とも呼ばれた、ここが藪原宿の京(西)口で升形であった。

尾張藩鷹匠役所跡
防火高塀跡
藪原宿の町並み

《 巴淵付近 》

 藪原駅の地下道を潜り国道19号を木曽川沿いに暫く行くと吉田洞門(国道のトンネル)に出る。洞門横の歩道を歩き、洞門を出た所にある焼肉屋で少し早目の昼飯(醤油ラーメン)食う。
国道山吹トンネルの手前から旧国道に入り、再び神谷入口信号で国道に合流する。暫らく国道を歩くと宮ノ越宿のモニュメントがあるところから右手の道に入って行くと巴淵である。
紅葉が始まった「巴淵」は淀みある渓谷(木曽川)である。巴橋を渡り鄙びた集落の旧道を行く、「有栖川宮小休所跡碑」を通り再び木曽川に架かる葵橋を渡り、宮ノ越駅の近くを通り宮ノ越宿入口に到着する。 木曽川の対岸には木曽義仲三十一年の壮絶な生涯が歴史資料等が展示されている「義仲館」と「徳音寺」がある。

【 謡曲 巴 】の立札には
 修羅物の中でも女性を主人公にした唯一の作品です。木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。 事情を聞くと「木曽義仲が討ち死した場所で、弔って欲しい」という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ「自分は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかったと語る」 巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。 巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。  『謡曲史跡保存会』

巴 淵 は、巴御前はこの淵に住む竜神の化身との伝説がある。巴は義仲の養父兼遠の娘として生まれ、生涯義仲を守り続けた。
有栖川宮小休息所跡碑 は、皇女和宮の元婚約者であった有栖川熾仁親王夫妻が中山道旅行の途中休息した。

吉田洞門歩道
紅葉が始まった巴淵と中央本線鉄橋
巴淵 [拡大表示]
有栖川宮小休息所跡碑

《 六十九次之内三十六 宮ノ越宿 》

 宮ノ越宿は明治の大火で宿並は全焼してしまい昔の面影は残っていない。この辺りが木曽義仲ゆかりの地で、木曽川対岸の徳音寺には木曽義仲公霊廟がある。

【 木曽義仲 】
 木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢と小枝御前の二男として武蔵国大蔵館で生まれた。翌年伯父義朝の長子義平に父義賢が攻め滅ぼされ、二歳の義仲は信濃国木曽に逃れ、中原兼遠にかくまわれ養育を受けた。
治承四年(1180)後白河法皇第二皇子以仁王の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをし、寿永二年(1183)北陸に進撃し倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍を撃滅させた。 この年入京した義仲は征夷大将軍に任じられたが、翌年後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ近江の粟津ヶ原で討死した。三十一歳の短い生涯であった。

宮ノ越宿 は、木曽路の中にあって珍しく平坦な地で農地が広がっている。中山道の中間点に位置し、伊那に抜ける権兵衛街道を控え賑わった。明治17年の大火で宿並は全焼してしまった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百三十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒で宿内人口は五百八十五人であった。

宮ノ越宿(歌川広重画)
宮ノ越宿 [拡大表示]

本陣跡 は、村上弥惣右衛門が代々勤めた、明治天皇御小休之跡碑がある、明治13年(1880)巡幸の際にお茶を供した、明治16年の大火で焼失してしまった。
旧旅籠田中屋 は、明治の大火後の再建、玄関の持ち送りには見事な彫刻が施されている。
宮ノ越の一里塚跡 は、宮ノ越一里塚跡碑がある、江戸日本橋より六十八里目。

宮ノ越宿本陣跡
宮ノ越宿旧旅籠田中屋
宮ノ越の一里塚跡

《 原野付近 》

 宮ノ越宿を出て中央本線沿いに暫く行くと原野である。「石仏石塔群」や中山道の中間地点を示す「中山道中間地点」碑を通り、小沢という辺りから旧道の草道を栗本まで歩く。
草道から県道に出て「薬師堂」「手習天神」を通り上田口信号で国道19号のガードを潜り「出尻の一里塚」に至る。

原野の石仏石塔群 は、多数の石仏石塔が段上に並べてある。
中山道中間地点 は、江戸、京双方から六十七里二十八町(約266m)に位置している。南東方向に木曽駒ヶ岳、中央アルプスが望める。
薬師堂 は、傍に嘉永五年(1852)建立の廿三夜塔や庚申塚等がある。
手習天神 は、中原兼遠が駒王丸(木曽義仲)と娘巴の学問の神として北野天文宮を勧請したもの。
出尻の一里塚 は、旧道口に出尻一里塚跡碑がある、江戸日本橋より六十九里目。

原野付近の石仏石塔群
中山道中間地点碑(後方奥の高山は木曽駒ヶ岳?)
中山道中間地点碑 [拡大表示]
小沢付近の旧中山道
小沢村付近の薬師堂と廿三夜塔
出尻の一里塚

『 福島宿手前 』
 「出尻の一里塚」からは矢崎旧道を通り、大きな冠木門ある福島宿入口まで木曽川沿いを歩く。

木曽川と木曽町中学校
福島宿入口の冠木門
福島関所マンホールの蓋
福島関所マンホールの蓋 [拡大表示]

《 六十九次之内三十七 福島宿 》

 大きな冠木門を潜り左手の坂道を登ると「福島の関所跡」である宿である。高台にある関所跡を下り福島宿の散策したが「高札場跡」や復元された昔の家並があるり、昔の面影を偲ぶことができる。
福島宿の散策を終え坂道を登り、ようやく福島駅に辿り着く。これで、今回の中山道の旅も御仕舞。

【 木曽町福島 】
 木曽町福島は信州松本より木曽11宿の5番目にあたり、木曽川に沿って曲がりくねって伸びる道は、かって江戸時代には多くの旅人が歩いた中山道の中心部。 かっては木曽路と呼ばれ、山や峠を越える険しい街道であった。
福島宿には江戸幕府が江戸防衛のために、東海道の箱根関所や荒居関所、中山道の碓井関所などと並ぶ日本四大関所の一つが設けられておりました。
有事の際には、関所を封鎖し江戸を守るために木曽川の断崖に望む、険しく、狭い場所に設けられておりました。特に鉄砲と女性には厳しい吟味がなされ、通行するのに普通でも女性は1刻の吟味時間が掛かったと云われている。

福島宿 は、戦国時代木曽氏の城下町であり、江戸時代になると代官山村氏の陣屋町となった。この地は「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす、木曽福島は谷底の町」とうたわれ要害の地であった。 木曽十一宿の中心地で松本や飯田に次ぐ大きな町であった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百五十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒で宿内人口は九百七十二人であった。

福島関所(歌川広重画)
福島関所 [拡大表示]

福島関所 は、碓氷、箱根、新居と共に「天下の四関」の一つ、尾張藩の代官山村氏が関守を勤め、入り鉄砲と出女を厳しく取り締まった。
村山代官屋敷跡 は、木曽川の対岸にある。村山氏は木曽氏の旧臣で戦国時代から木曽谷を治めていた。関ヶ原の功により木曽代官となり、福島関所の関守となった。
崖屋造り は、代官屋敷の当たりは陣屋町として発展し、木曽川の川端極限まで屋敷割りされていた。
上の段 は、木曾義昌の上之段城跡、旧家の街並を残し、水場がある。

左に福島関所跡
福島関所跡
福島関所跡から見た福島宿と木曽川
福島宿を見下ろす [拡大表示]
福島宿の宿並
福島宿高札場跡
福島宿の宿並
『上の段』昔の面影残す宿並(水場がある)
福島宿 上の段 [拡大表示]
福島宿の宿並

 鳥居峠は寒かったが、後は薄曇りの天気で歩くのには快適であった。福島駅には予定より1列車早めに着いたが、「鳥取中部地震」のため名古屋発の特急列車に遅れが出ていたが、運よく「特急あずさ」が塩尻駅で待ち合わせしてくれたお蔭で新宿には20分遅れで到着することができた。

民宿を7時40分に出発して中央本線福島駅に15時10分に到着。所要時間7時間30分(休憩時間60分)、実歩行時間6時間30分、実歩行距離19.9km、歩速約3.06km/時である。



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