山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《14日目》2017年3月29日
須原宿 ~ 野尻宿 ~(難所羅天)
~ 三留野宿
道中行程
行 程 塩尻駅 = 須原駅 → 須原宿 → 大 桑 → 野尻宿 →(難所羅天)→
三留野宿 → 南木曽駅
距離・時間 17.5km / 5時間35分

 「山里の春」を探しに南木曾路、須原宿から三留野宿までの旅である。


《 六十九次之内三十九 須原宿 》

 寒い朝、塩尻駅を始発普通列車に乗り須原駅へ、須原駅を降りたのは我輩一人である。
須原駅を出るとそこが「須原宿」である。須原宿は昔の面影が乏しい侘しい宿並みである。木村本陣跡、正岡子規歌碑、名刹定勝寺を過ぎるともう宿外れである。

『須原宿』は、正徳五年(1715)木曽川の氾濫で流失してしまった、享保二年(1717)一段高い現在地に移転した、水に恵まれ宿内には丸太をくり抜いた水船が随所に置かれ「水船の里」とも呼ばれた。 慶応二年(1866)の大火で宿並みは焼失。桜の花漬やとろろ汁が名物であった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒で宿内人口は四百七十八人であった。

須原宿(歌川広重画)
須原宿 [拡大表示]

『木村本陣跡』は、代々木村平左衛門を襲名した。
『正岡子規歌碑』は、子規は明治二十四年 須原宿に一泊している。

 碑には「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほとの 空たにもなし」と記されている。

侘しい須原宿
正岡子規歌碑
須原宿並み・定勝寺

 須原宿を過ぎ中央線の踏切を渡り、長坂を登り、下に変電所、中央線、木曽川が見えてくると橋場の集落である。集落を暫く行くと伊奈川橋の手前左手の山の中腹に「岩出観音堂」が見えてくる。

『岩出観音堂』は、京の清水寺崖屋造り、本尊は馬頭観音で木曽3観音の一つ。
『伊奈川橋』は、伊奈川は渓谷の為、橋杭が立てられず刎掛橋であった。今も橋杭のないアーチ橋。

岩出観音堂
岩出観音堂 [拡大表示]
伊奈川橋

『 水戸天狗党勢軌跡 』
十一月二十三日飯田藩(一万七千石)領の飯島宿で一行は昼食を摂った。そこに平田学派の国学者が訪れ、天狗勢がこのまま進めば飯田藩は城下を焼き払い、籠城の方針であることを伝えた。 ついては間道を通過するのであれば黙認するとの内諾を得ている旨を伝えた。無用な戦いを好まない両者の利害が一致し、一行は承諾した。 片桐宿に宿泊した翌日、一行は国学者の道案内で飯田の城下町から離れた弓矢ヶ沢の間道を進み、今宮で藩の用意した昼食を摂り、駒場宿に宿営した。

《 大桑駅付近 》

 伊奈川に架かる伊奈川橋を渡り、暫らく行き小川の手前の道を左に曲がる。
この道は中山(蛇行切断地形と呼ばれる河道)を迂回(三角形の二辺を)して大桑駅付近に出る道である。
途中、「天長院」の左に見て30分程で大桑駅付近に出る。
大桑駅付近の踏切を渡り国道19号に合流する。ここから国道を30分程歩き再び右手の旧道に入り、踏切を渡り中央線沿いの旧道を歩く、突然、「特急しなの」に遭遇する。

『蛇行切断地形』は、川が極端に蛇行すると、基部が切れ短縮された地形。中山は蛇行跡の旧河道と切断された新河道に囲まれた、還流丘陵が出来る。
『天長院』は、木曽家の祈願所であったが武田軍の兵火で焼失、寛文年間(1661~73)この地に移転する。山門前の子育て地蔵のひもが十字にみえることから「マリア地蔵」の別称がある。

天長院
大桑駅付近
大桑駅付近から見た中央アルプス
大桑駅付近の風景 [拡大表示]

『 水戸天狗党勢軌跡 』
 十一月二十三日飯田藩(一万七千石)領の飯島宿で一行は昼食を摂った。そこに平田学派の国学者が訪れ、天狗勢がこのまま進めば飯田藩は城下を焼き払い、籠城の方針であることを伝えた。 ついては間道を通過するのであれば黙認するとの内諾を得ている旨を伝えた。無用な戦いを好まない両者の利害が一致し、一行は承諾した。 片桐宿に宿泊した翌日、一行は国学者の道案内で飯田の城下町から離れた弓矢ヶ沢の間道を進み、今宮で藩の用意した昼食を摂り、駒場宿に宿営した。

 十一月二十五日駒場宿を立ち、途中軍律に背き民家に押し入った隊士の首を刎ねた。梨子野峠を越え、飯田藩領の清内路関を通過し、上清内路村に宿営した。 一行の後を幕府の追討総督田沼玄播頭意尊の大軍が追走していたが、戦意は全く無かった。綱紀は緩み横暴な振舞が多く、天狗勢に比較して評判は良くなかった。

野尻宿手前の旧道
突然!「特急しなの」に遭遇 (野尻宿手前の旧道沿い)
「特急しなの」 [拡大表示]

《 六十九次之内四十 野尻宿 》

 中央線沿いの旧道を暫くに歩き踏切を渡ると倉坂で「野尻宿」の入口である。 野尻宿は明治と昭和の大火で宿並は全焼してしまい昔の面影は残っていない、侘しい宿場である。

『野尻宿』は、宿長は六町三尺(約655m)あり奈良井宿に次ぐ長さであった。上町、仲町、下町、荒田町で構成され、宿並は外敵から防御目的で屈曲し「野尻の七曲り」といわれた。 明治27年と昭和18年の大火で焼失、往時の面影は殆ど失われてまった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十九軒で宿内人口は九百八十六人であった。

野尻宿(渓斎英泉画)
野尻宿 [拡大表示]

『森本本陣跡』は、問屋を兼ねた、明治27年の大火で焼失してしまった、跡地に明治天皇御小休所碑がある。
『木戸脇本陣跡』は、問屋、庄屋を兼ねた、明治27年の大火で焼失した。

野尻宿入口の踏切
侘しい野尻宿
野尻宿 森本本陣跡
野尻宿 木戸脇本陣跡
野尻宿の宿並み

《 野尻から南寝覚 》

 「野尻宿」出て阿寺渓谷入口から中央線沿いに旧十二兼村に向かう。30分程旧道歩き一旦国道の合流し再び左手の旧道の坂道を登り切ると石仏石塔群に出る。旧道を暫く下り、国道と中央線の地下トンネルを潜って木曽川沿いの道にでる。「十二兼駅」の横を通り「南寝覚」に向かう。
暫らく行くと眼下に「南寝覚」とも呼ばれる柿其峡(かきぞれ)の景観が広がっている。 お久しぶり、こちらに向かって歩いて来る人がいではないか! 中山道一人旅する女性と一時立ち話をする。
木曽川沿いに道を歩き柿其の信号で国道に合流する。国道左手の崖が見えてくるがこれが「羅天の桟橋」である。現在は中央線が通っている。

『難所羅天』
 木曽路名所図会「野尻より三留野までおよそ二里半、道は深き木曽川に沿い、せまき所は木を切り渡し、つたかずらにてからめて、その巾を馬にも乗りがたき、はなはだ危うきところあり」と著わしている。

『旧十二兼村の石仏群』は、宝暦十年(1760)建立の観音像、弘化三年(1846)建立の二十三夜塔、文政二年(1819)建立の馬頭観音等が祀られている。
『南寝覚』は、眼下に柿其峡の景観が広がり、花崗岩の方状節理が見られ、「南寝覚」の別称。
『羅天の桟橋』は、慶安元年(1648)「羅天の桟橋」が開通したが、蛇抜けや木曽川の出水により通行止めになると与川道が迂回路となった。
「羅天の桟橋」があったところ、島崎藤村「夜明け前」の冒頭に「あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり」と著わしている。

旧十二兼村の石仏群
柿其峡「南寝覚」
柿其峡「南寝覚」 [拡大表示]
左上が「羅天の桟橋」と木曽川
羅天の桟橋 [拡大表示]

《 六十九次之内四十一 三留野宿 》

 「羅天の桟橋」を過ぎ木曽川沿いの国道を暫らく歩き左手の県道に入りる。中央線のガードを潜り暫く行くと「三留野宿」である。昔の面影は殆ど無い、寂しい宿並みである。 鮎沢本陣跡、秋葉山常夜灯などを通りすぎ南木曽駅方面に下りて行く。

『三留野宿』は、戦国時代木曽氏のこの地に館があり御殿(みどの)と呼ばれたところを地名の由来としている。
三留野宿は木曽路屈指の難所を控え「野尻と三留野の間最も危ふき路なり」と貝原益軒も書いている。 花崗岩地帯で「蛇抜け」と呼ばれる土石流も発生。
旅籠は多かったが「宿悪しく、わびしき所」といわれた。宿並は度々火災に見舞われ宿長は当初より二十五間も短くなった、明治14年にも火災に遭ったが、国道から外れ古い家屋を残している。

三留野宿(歌川広重画)
三留野宿 [拡大表示]

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は七十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒で宿内人口は五百九十四人であった。

『鮎沢本陣跡』は、明治天皇行在所記念碑がある。

三留野宿
三留野宿本陣跡
秋葉神社常夜燈

《 南木曽駅手前 》
 「三留野宿」を出ると右手下に「木曽檜の集積場」が見え、中央線の跨線橋を渡ると南木曽駅である。
駅の待合室にはバックパッカーのYOU達が大勢いて賑やかである。

三留野宿の京口
木曽檜の集積場
木曽檜の集積場 [拡大表示]
南木曽駅

 午前中は薄曇り、午後は早春の日差しの中、「山里の春」を探しに南木曽路の旅であったが、まだ「山里の春」は遠い・・・  南木曽駅から塩尻経由で新宿へ。

須原駅を8時10分に出発して南木曽駅に13時45分に到着。所要時間5時間35分(休憩時間15分)、実歩行時間5時間20分、実歩行距離17.5km、歩速約3.28km/時である。



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