皇女和宮の遺徳をしのぶ「小簾紅園」 |
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《 小簾紅園から赤坂宿への道 》
「小簾紅園」を通り、平野井川に架かる新橋を渡り平野井川沿いの土手沿いの道を歩く、「墨俣追分」道標を通り、左手に大垣輪中を見ながら赤坂宿に向かう。
平野井川の土手道と分かれ「この道は中山道標識」と「中仙道三回り半の道標」を左に曲がり、「弘法大師爪彫薬師堂」「中仙道七回り半の道標」の曲がりくねった道を二キロ程歩くき養老線東赤坂駅の踏切を渡ると赤坂宿は近い。
『墨俣追分』は、紀州徳川家の参勤道であった為「紀州街道」とも呼ばれた。
『弘法大師爪彫薬師堂』は、弘法大師が爪で彫った薬師如来を安置している。
『中仙道七回り半の道標』は、京に向かって七つの曲がりとわずかな曲がり一つある。古代の条里地割に街道が沿うため、何度も曲がっている。
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《 六十九次之内五十六 赤坂宿 》
蛍で有名な杭瀬川に架かる赤坂大橋を渡ると赤坂宿である。「赤坂湊跡の石灯籠」「赤坂宿本陣跡」「所郁太郎像」などがあり、昔の宿場と川港の面影が偲ばれる。また、宿西(京)口に兜塚・赤坂御使者場跡がある。
『赤坂宿』は、杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は二百九十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十七軒で宿内人口は千百二十九人であった。
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赤坂宿(歌川広重画) |
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『杭瀬川』は、大海人皇子(天武天皇)は壬申の乱(672)で傷を負い、この川で傷を洗うとたちまち治ったことから「苦医瀬川」と呼ばれた。
「杭瀬川の蛍」は、我国最大のゲンジボタル(大垣市天然記念物)が生息している。
『赤坂湊跡』は、諸藩の廻米が集積された。川を交通の手段としていた1900年初期ごろ、川港の赤坂港には500艘を超える船が往来したといわれます。
この地域は、古くから石灰や大理石産業が盛んで産業の町としてにぎわいを見せていました。
『赤坂本陣跡』は、寛永以降は馬淵太郎左衛門、次いで平田又佐衛門、天明、寛政の頃は谷小兵衛に変わり、以後矢橋広助が明治維新まで勤めた。
赤坂出身の幕末医学志士「所郁太郎像」がある。全身をきられた井上聞多(馨)を畳針で縫合し一命を救った。
『兜塚・赤坂御使者場跡』は、関ヶ原の前哨戦「杭瀬川の戦い」で戦死して東軍中村隊の武将野一色頼母の鎧兜を埋葬した。ここは赤坂宿の京(西)口。
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蛍で有名な杭瀬川と川港「赤坂湊跡」 |
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『 皇女和宮降嫁日程 』
十月二十五日(五日目)暮七ツ時(午後四時頃)皇女和宮は赤坂宿矢橋本陣に宿泊した。翌朝五ツ時(午前八時頃)本陣を出立、彦根藩約千七百名、大垣藩約千三百名が警護し、その隊列は十町(1.1km)余りに及んだという。
大垣藩は和宮通行の前後三日間の街道通行禁止、宿泊当日より翌朝夕方まで焚き火、鳴り物を禁じた。
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《 赤坂宿から垂井宿への道 》
赤坂宿を出て昼飯伝説のある昼飯町を歩き東海道本線昼飯架橋くぐる。暫く行くと大谷川の手前「昔の物語 照手姫」所縁の「青墓圓願寺跡」「青墓宿」がある。
大谷川を渡り「青野ヶ原の一里塚跡」を通り、真っ直ぐ伸びた道を2.5キロ程行くと垂井宿の入口である相川橋に辿り着く。
『昼飯伝説』(ひるい)は、本田善行が難波の海から拾い上げた三尊仏(善光寺如来)を信濃に運ぶ途中、ここで昼飯を摂った。
『三尊仏(善光寺如来)』は、善光寺のご本尊は三国伝来の「日本最古の御仏」といわれています。
善光寺縁起によると、善光寺如来は日本に渡ってから約100年後、信州長野に運ばれてから10年ほどが立つ頃に自身のお告げにより、
お隠れになったとされています。それ以降、7年に一度の御開帳にさえ姿を見せず、善光寺本堂奥の厨子の中に安置されています。
『青墓圓願寺跡』は、照手姫の墓がある。照手姫は青墓長者に売られた、姫は客取りを拒否してた為、長者より籠で井戸水を汲めといういじめにあう。
また、青墓は鎌倉時代東山道の宿駅として栄え、「遊女の里」として知られた。
『照手姫』は、常陸の国の郡代、横山将監の娘・照手姫は、行儀見習に行った先の小栗判官と恋に落ちました。将監は二人の恋を妨げ、判官を殺しました。
照手姫は家を飛び出しましたが悪者にさらわれ青墓の長者に売られました。長者は照手姫に客をとらせようとしますが、姫は観音様の御利益でこの難を切り抜けます。
やがて小栗判官は熊野の霊泉によって蘇り、安八郡安八町にある結大明神の前の大悲閣観音堂で、姫とめぐりあいます。
圓願寺にまつられた観音菩薩は、照手姫の守り本尊だと伝えられています。
『青野ヶ原の一里塚跡』は、大正5年建立の大神宮常夜燈前に標石がある。江戸日本橋より百十一里目。
『平尾御坊道道標』は、北800m熊坂長範物見の松、大盗賊の熊坂は古墳の松に身を隠し旅人を物色した。義経一行を襲った熊坂は返り討ちになった。
『相川越え』は、暴れ川のため、架橋が困難であった。今は鯉のぼりが春の風物詩。
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《 六十九次之内五十七 垂井宿 》
相川に架かる相川橋を渡ると垂井宿江戸(東)口にあたる東見附跡がある。静かな佇まいの碓井宿、枡形の傍にある「旅籠丸屋」、三代将軍家光が再建した「南宮大社大鳥居」「高札場跡」「本龍寺」などを通ると、京口「西見付跡」に出る。
『垂井宿』は、東海道宮宿に通じる脇往還美濃路との追分を控え、西美濃の交通の要衝として栄え、中山道で唯一大八車の使用が許可された。
毎月五と九の日に南宮神社鳥居付近で六斎市が立ち、大いに賑わった。西町、仲町、東町の三町で構成された。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は三百十五軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋三、旅籠二十七軒で宿内人口は千百七十九人で幕府領。
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垂井宿(歌川広重画) |
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『垂井宿東見附跡』は、相川橋を渡った所にある。垂井宿江戸。
『旅籠丸屋』は、安永六年(1777)築、浪花講、文明講の指定旅籠であった。
『本龍寺』は、元禄四年(1691)芭蕉は当寺に冬籠りをした、時雨庵には芭蕉翁木像が安置されている。
『垂井宿西見付跡』は、垂井宿京口、愛宕神社が祀られている。広重画垂井の場では大名行列を迎える本陣の人々を描いた。
《 垂井宿から関ヶ原宿への道 》
垂井宿「西見付跡」を後に少し歩くと東海道本線出屋敷踏切にでる。踏切を渡り国道21号線の日守歩道橋から旧道沿いの「垂井の一里塚」にでる。旧道を東海道本線を右手に見ながらひたすら関ヶ原を目指して歩く。
途中「野上七つ井戸」「松並木」「山内一豊陣跡」を通り国道に合流し「徳川家康最初陣跡(桃配山)」を見て関ヶ原宿に辿り着く。関ヶ原宿の散策は明日にして関ヶ原駅に向う。
『野上七つ井戸』は、野上は東山道時代の宿駅で「遊女の里」と呼ばれ、後間の宿となった。
『野上松並木』は、樹齢三百年、壬申の乱の野上行宮は、この付近に置かれたとされる。また、関ヶ原合戦では山内一豊が布陣した。
『徳川家康最初陣跡』は、桃配山、壬申の乱の際、大海人皇子がここに布陣し、兵士に桃を配って勝利を得た。家康はこの故事にならって最初の布陣を行った。
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日守歩道橋から(国道21号線と東海道本線、奥が関ヶ原古戦場) |
日守信号歩道橋 [拡大表示] |
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歩くに良い天気である。今日は4ヶ所の宿場を歩き、宿毎の特徴を感じた西美濃の旅であった。
穂積駅を7時15分に出発して関ヶ原駅に15時20分に到着。所要時間8時間5分(休憩時間40分)、実歩行時間7時間25分、実歩行距離26.1km、歩速約3.52km/時である。
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