山ねずみが歩く
『 中 山 道 』
《22日目》 2017年11月2日
(関ヶ原古戦場)~ 関ヶ原宿 ~(不破関)
 ~ 今須宿 ~ 柏原宿 ~ 醒井宿
道中行程
行 程 大垣駅 = 関ヶ原駅 →(関ヶ原古戦場散策)→ 関ヶ原宿 →(不破関)→ 今須宿柏原宿醒井宿 → 醒ヶ井駅
距離・時間 13.6km / 4時間35分 (関ヶ原古戦場散策は除く)

 今日は関ヶ原古戦場を散策した後、関ヶ原宿から今須宿、柏原宿をへて醒井宿までの西美濃から近江路に出る旅である。

天気は上々、関ヶ原駅を出て早速「関ヶ原古戦場」へ。東海道本線の跨線橋を渡り「東首塚」「徳川家康 最後陣跡」「決戦地」を通り「笹尾山・石田三成陣跡」に至り、再び関ヶ原駅に戻る。(所要時間:1時間30分)

【 関ヶ原の合戦 】

 天下分け目の戦いと呼ばれれ美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。 慶長五年(1600)九月十五日朝方霧が晴れ、徐々に西軍の旗指物が見え始め、これを見て東軍の井伊隊と福島隊が宇喜多隊に向けて戦端が切られた。 両軍の優劣ははっきりせず石田隊と黒田・細川・加藤隊、大谷隊と藤堂・京極隊、特に宇喜多隊と福島隊は激戦を重ねた。 西軍の善戦により、東軍は押され気味となり、家康は桃配山より陣場野に陣を移したが戦況は好転しない。
 戦況有利と見た三成は、松尾山の小早川、南宮山の毛利に向けて総攻撃の狼煙を上げたが、吉川隊と小早川隊は家康と内通しており、これに応ぜず。 正午になっても勝敗は決ず、西軍の反撃も激しくなってきたため、家康は、松尾山の小早川隊に向けて、催促の一斉射撃を行い、それに反応し、遂に小早川隊は大谷隊に攻撃を開始した。 小早川隊の裏切りにより西軍は浮き足立ち、大谷隊もなんとか持ちこたえたものの遂に敗れ、吉継はその場で自害した。 大谷隊が敗れ、東軍の総攻撃を受け、宇喜多隊、小西隊も崩れた。
西軍の諸隊が敗走する中、石田隊は頑強に東軍と抗戦したが、圧倒的な東軍に、遂に石田隊が北国街道方面へ敗走し、戦いはついに決着した。

いざ行かん!関ヶ原の戦場へ
石田三成陣地 笹尾山
陣馬のいな々き、鬨の声! 笹尾山より関ヶ原古戦場を俯瞰
石田三成陣地跡 [拡大表示]
関ヶ原の合戦 決戦地 (意外と狭い所である)
関ヶ原 決戦地 [拡大表示]
徳川家康 最後の陣地
関ヶ原の合戦 徳川軍・豊臣軍 陣地図
関ヶ原の両軍陣地 [拡大表示]

《 六十九次之内五十八 関ヶ原宿 》

 関ヶ原古戦場の散策を終え一旦関ヶ原駅に戻り、再び中山道の旅をつづける。
国道21号線(中山道)に面した関ヶ原宿は宿場としての面影は無い。コンビニで昼飯用のおにぎりを買い、国道を西に向かう。 「西首塚」を過ぎ松尾信号の「これより中山道(不破関入口)」標識を左に曲がり旧道に入る。

『関ヶ原宿』は、伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地(現在でも東海道線、国道、名神高速が集中)で軍事上の要衝であった。 関ヶ原宿は勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、問屋場は八軒置かれ、美濃十六宿中加納に次ぐ規模を誇った。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は二百六十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒で宿内人口は千三百十九人で旗本竹中氏領であった。

関ヶ原宿(歌川広重画)
関ヶ原宿 [拡大表示]

『相川脇本陣跡』は、表門が残り、禅師生誕地の碑が建つ。江戸初期の名僧。
『関ヶ原宿八幡神社』は、天正十六年(1588)時の領主竹中重門が創建。関ヶ原合戦で焼失、家康が再建した。
『大神宮常夜燈』は、この辺が関ヶ原宿の京(西)口。
『西の首塚』は、(国史跡)関ヶ原合戦の戦死者数千名の首級を葬った塚。大木の裏には胴塚がある。

関ヶ原宿の宿並
関ヶ原宿 相川脇本陣跡
関ヶ原宿八幡神社
関ヶ原宿 大神宮常夜燈
関ヶ原宿 西の首塚

《 関ヶ原宿から今須宿への道 》

 旧道に入ると直ぐに「不破関東門跡」「不破関庁舎跡」「不破関跡」を通り、「左中仙道」標識のある坂道を下る。坂をくだった所が「西城門跡」である。
藤古川に架かる藤下橋を渡り、「箭先地蔵堂・矢尻の池」、山の間の宿跡である「間の宿山中」を通り東海道新幹線「黒血川」ガードを潜る。
この辺りは里山の道で旧街道の趣がある。ガードを潜ると、あの常盤御前の墓がある。

暫く里山の道を歩き東海道本線の踏切を渡り、山の中の道となる。この辺りが今須峠である。
山道を暫く歩き国道21号線にぶつかった所に「今須の一里塚」がある。国道を離れ今須宿に行って行く。

『不破関跡』は、壬申の乱以後に設けられた関、破れ不る関を意味する。東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに古代律令制下の三関の一つ。
『藤古川』は、壬申の乱のとき、川を境に、東に大海人皇子軍、西に大友皇子軍が対峙した。
『箭先地蔵堂・矢尻の池』は、池跡は壬申の乱の際、大友皇子の兵士が矢尻で堀った井戸跡。
『若宮八幡神社』は、宮上は大谷吉継陣地跡がある。
『間の宿山中』は、山中村は旗本竹中氏の知行地で、高札場が設置された。
『黒血川』は、壬申の乱の流血で、川底の岩石が黒く染まった。
『常盤御前墓』は、常盤御前は鞍馬山から東国に向かった牛若丸を案じ、乳母の千草と後を追い、山中の宿で土賊に殺された。

不破関旧道入口
不破関跡・不破関守跡
不破関跡(下り坂)
箭先地蔵堂・矢尻の池
間の宿山中
黒血川と新幹線ガード
常盤御前墓
「壬申の乱」両軍の動き
「壬申の乱」動き  [拡大表示]

【 壬申の乱と不破関 】

 壬申の乱は、天武天皇元年六月二十四日(672)に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇)に対し、皇弟・大海人皇子(天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。 反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたることによる。

 不破関は壬申の乱後、律令体制の整備に伴って(8世紀初め)に設置された。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つとされている。
関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者をチエックする目的であると考えがちですが、壬申の乱で大海人皇子が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられる。
不破関は延暦八年(789)年に関の機能が停止さたが、その後、鎌倉時代には通行料(関銭)を取っていたことも明らかになっている。
歌に詠まれることも多く、松尾芭蕉は野ざらし紀行の中で「秋風や藪も畠も不破関」という句を残しいる。

《 六十九次之内五十九 今須宿 》

 今須橋を渡り宿場に入って行く、人影のない静か佇まいの宿場。「妙応寺」が東海道本線架橋越しに見えて面白い景色である。
「本陣跡」「問屋場跡」「常夜燈」などを過ぎると宿場も終わりである。
余談ですが、関ヶ原駅でお会いした「中山道を旅する御夫婦」と不破関から柏原宿まで道ずれになった。

『今須宿』は、妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わい、問屋場は七軒あった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は四百六十四軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒で宿内人口は千七百八十四人で幕府領(大垣藩預かり領)、宿高千五百石であった。

今須宿(歌川広重画)
今須宿 [拡大表示]

『妙応寺』は、この地を治めた長江氏四代目重景が、母妙応の菩提を弔うために創建し菩提寺とした。妙応は年貢の取り立てには大枡を、米の貸付には小枡をと、「異枡」を用いたことが「今須」の地名由来となっている。
『伊藤本陣跡』は、関ヶ原合戦に勝利した家康は翌日、ここで休息、その際に腰掛けた、石は青坂神社に奉納された。
『問屋場跡』は、山崎家が勤めた。文政三年(1820)築の建物には永楽通宝の軒丸瓦がある。今須騒動の跡が残る。
『金毘羅大権現永代常夜燈』は、問屋が荷を紛失、金毘羅大権現に祈願したところ、今須宿に荷があるとのお告げがあった。河地屋はお礼に常夜燈を寄贈した。

橋を渡ると今須宿
東海道線架橋越しに妙応寺
架橋越しに妙応寺 [拡大表示]
今須宿問屋場跡
金毘羅大権現永代常夜燈
今須宿(道ずれの御夫婦)

《 今須宿から柏原宿への道 》

 今須宿を出て「車返地蔵」を通り国道21号線と東海道本線踏切を渡り寝物語里に入って行く。 「芭蕉句碑」、美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の国境を示す「近江美濃両国境寝物語」碑が建っている。ここから長かった美濃路とも別れ近江路に入って行くことになる。
「カエデ並木」の道を歩き、再び東海道本線踏切を渡ると「柏原宿碑」と「照手姫笠掛地蔵」があり柏原宿の入口である。 腹が減ったので「照手姫笠掛地蔵」の祠横で関ヶ原のコンビニで買った「おにぎり」を食べる。
『車返地蔵』は、地蔵尊までの草道が旧道痕跡で「車返坂」と呼ばれる。京の二条良基が荒れ果てた不破の関の月が風流と、ここまで牛車で来たところ修復されたと聞き、牛車を引き返した。
『芭蕉句碑』は、「正月も美濃と近江や閏月」、野ざらし紀行の芭蕉が寝物語の里を通過する際に詠んだもの。
『近江美濃両国境寝物語』は、美濃側に旅籠両国屋、近江側に旅籠かめやがあり、寝ながらに話が出来た。幅一尺五寸の流れが美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の国境(県境)。
『照手姫笠掛地蔵』は、小栗判官助重は落命の危機にあったが、照手姫が路傍の地蔵に笠を懸け、一心に祈ると助重は全快した。

左手土手が「車返地蔵」
野ざらし紀行「芭蕉句碑」
← 美濃国 「近江美濃両国境寝物語碑」 近江国 →
寝物語碑 [拡大表示]
中山道道標
照手姫笠掛地蔵

《 六十九次之内六十 柏原宿 》

 「照手姫笠掛地蔵」で昼飯をとり柏原宿に入って行く。小じまりした静な佇まいの宿場である。

『柏原宿』は、古くから東山道の宿駅として発展し、建久元年(1190)源頼朝が初上洛の際宿陣した。江戸時代は伊吹山から産出するよもぎを原料にした艾(もぐさ)が中山道有数の宿場名物であった。
天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は三百四十四軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋六、旅籠二十二軒で宿内人口は千四百六十八人で幕府領、後に郡山領となった。

柏原宿(歌川広重画)
柏原宿 [拡大表示]

『問屋場跡』は、六軒の問屋があり、」東西三軒づつに分かれ、十日交代で勤めた。
『柏原宿本陣跡』は、南部辰右衛門が勤めた。皇女和宮通行の際に立て直された。和宮の夫第十四代将軍徳川家茂は第二次長州征伐途上、当本陣に宿泊した。

柏原宿旅籠屋
柏原宿問屋場跡
柏原宿本陣跡
柏原宿札の辻
柏原宿の佇まい(京口)
柏原宿の佇まい [拡大表示]

《 柏原宿から醒井宿への道 》

 柏原宿の西口「柏原の一里塚」出ると、左側は鶯が原、右側は山の中山道を歩く、この辺は「並び松」と呼べれたところである。
1キロ程行くと不破関以前に設けられた関「小川関跡」がある。ここから右の土道(旧道)に行ったが100m程行くとゲートで通行できないので、再び元の道に戻り旅を続ける。
暫く歩くと梓橋を渡り、梓川沿いの道を歩き国道21号線に合流する。 国道を暫く歩くと「中山道」と彫られた大きな石標を左に(旧中山道)入って行く。

『柏原の一里塚』は、奥州川越に一里塚が復元されている。江戸日本橋より百十五里目。
『小川関所跡』は、不破関以前に設けられた関で小川、粉川、古川と呼ばれた。
『佛心水』は、旅人の喉を潤し、御仏の慈悲のもとで道中安全を祈願した井戸。
『伊吹山』は、標高は1377mで全山石灰岩からなり、薬草や高山植物で知られる日本百名山。

柏原の一里塚
小川関所跡
中山道道標(左 醒井宿へ)
佛心水
振り返れば遠くに伊吹山

《 六十九次之内六十一 醒井宿 》

 国道21号線と分かれて旧道(左側は名神高速道路の土手)に入る。旧道を暫く行くと「醒井宿東枡形・東見附」に出る、ここから「醒井宿」である。醒井宿三名水の一つ「居醒めの清水」がある「賀茂神社」が高速道路側壁にへばり付く様に鎮座している。
醒井宿は「居醒めの清水」を水源とする地蔵川沿いにできた宿場で「名水の里」として知られている。 地蔵川沿いの街道を「延命地蔵堂」「本陣跡」「問屋場跡」がある。宿の西には「十王水」「西行水・泡子塚」などがあり昔の面影が残っている。 「醒井大橋」を渡り、宿外れにある「醒井宿標石」を右に曲がると醒ヶ井駅はすぐでる。

『醒井宿』(さめがい)は、「名水の里」として名を馳せ、清水が豊富で旅人の良き休憩地として賑わい、名水を使った「ところてん」や「素麺」が名物であった。

天保十四年の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は百三十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒で宿内人口は五百三十九人であった。

醒井宿(歌川広重画)
醒井宿 [拡大表示]

『賀茂神社』は、醒井宿三名水の一つ「居醒の清水」がある。日本武尊は伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復した。
『本陣跡』は、現「割烹本陣樋口山」、江龍家が勤めた。
『地蔵川』は、居醒の清水が源、梅花藻が繁茂し「ハリヨ」が生息している。
『問屋場跡』は、現「米原市醒井宿資料館」川口家が勤め、遺構を残る。
『西行水・泡子塚』は、西行が飲み残した茶の泡を飲んだ娘が男子を出産、西行が念じると泡となった。

醒井宿 賀茂神社
居醒の清水
「名水の里」醒井宿を流れる 地蔵川
醒井宿と地蔵川 [拡大表示]
醒井宿問屋場跡
醒井大橋

 今日も天気は上々、「関ヶ原古戦場」「不破関」「各宿場の佇まい」など見るべき所も多く、「古代から中世」の歴史を旅した一日であった。醒ヶ井駅から米原経由で東京へ。

関ヶ原駅を9時55分に出発して醒ヶ井駅に14時30分に到着。所要時間4時間35分(休憩時間35分)、実歩行時間4時間、実歩行距離13.6km、歩速約3.4km/時である。



© Wild Mouse 2017


inserted by FC2 system